箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

日本の博士学生は本当に不幸なのか?〜お金について考える〜

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どうも〜〜ざわこです。

科研費申請を乗り越えた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

 

先日出張で国外のとある大学に行ってきたのですが、博士課程学生が置かれている状況について、いろいろと考えることがあったので、ここに記しておきたいと思います。

 

 

自ら出資し学ぶ日本 vs 給与を得ながら研究できる他国

アカデミック界隈では既に有名な話だと思うのですが、大学の博士課程に進学し、学位取得を目指すという共通の目的(達成目標)のもとにおいても、学生が置かれている状況は、日本国と他国では大きく違うという話がある。

他国では、学生が博士課程に進学する際、研究室のボス(もしくは大学)が、学生を雇用・あるいは採用し、その働きに対する対価として給与を与えるケースが多いらしいというのだ。つまり博士課程の間、やるべき仕事をきちんとこなしてさえいれば、生活に困窮することは無い、といわれている。

一方で、日本ではそのようなシステムはほぼ存在せず、博士課程に進学して研究をしていくためには、入学金・学費・生活費を、学生自身が自力で獲得、あるいは捻出*1していく必要があるのだ。

これらの「日本と世界各国との待遇の差」に関しては、悲観的な意見を持つ人が少なくない。

例えば、こんな記事がある。

大学院(博士課程)の悲惨な待遇は生活保護や刑務所の懲役刑未満という話 – はじめのすすめ

タイトルこそ過激だけども、置かれている境遇としては、的を射ているようにも感じられる。

言われてみれば確かに、お金も貰えないのに、なんで進学なんてするの!と、他国の友人に言われたんだよね〜という話も聞いたことがある。どうやってそれでやっていける(生きている)の?と、不思議がられることも、割と頻繁にある。

このように、日本の学生が置かれている「不遇」に見える状況は、他国の博士課程の学生にはなかなか理解してもらえない。確かに「ボスや大学に雇われ、給与を貰いながら、生活が保障された環境で研究ができる」のが当たり前のものなら、それらが満たされない環境(例えば日本)で研究するという状況は、なかなか信じられないだろう。

そんな他国における学生を取り巻く、一見「恵まれた研究環境」を知る人々の

こんな苦行を若者に強いる日本は終わっている。不遇で、恵まれていない。不幸だ。日本も他国に見習いそういう制度を導入すべき(あるいは、日本で学位を取るべきではない)。

という主張は、よく耳にする。実際に私も「取れるものなら海外の大学で学位を取った方が良いことが多そうだよな〜〜〜給料高いし」と、思っていた。

 

「雇用される意味」を再考する

しかし、最近になって、研究室のボスからプロジェクト予算等で雇われ、実際に「生活を保障してもらいながら研究をしている学生たち」から聞いた意見は、私(我々?)が抱いていたその認識とは、少し、いや、かなり異なっていた。

その時に聞いた内容と、それ経て私が思った雑感をまとめてみる。

生活が保障されている安心感がある

他国の博士学生は、一般企業で働くのと同じように「社会人」として扱われている*2。それでけでなく、労働に対してきちんと対価(しかもそれなりに高い)が得られるため、帰属意識や責任感も生まれる。これは学生にとっては非常にポジティブである。

またこれは私の主観であるが、社会的立場も給与も保証されているためなのか、学生のうちに家庭を持つ比率が、日本よりも多いように感じる。

在籍年数の長期化

既に「給与もあり、社会的に認められている」からこそ「早く卒業しよう」というモチベーションにはつながりにくく、在籍年数が長期化するケースもあるらしいと聞いた。

長期に渡って在学することは、単純に考えれば、年数が増えれば増えるほど、学ぶ時間も増えるはずであり、その期間は、給与を得ながら、幅広い分野について学んだり、知識を吸収したり、経験したりする機会に恵まれやすいと考えられる。

その一方で、卒業時年齢の高年齢化は避けられないし、研究室の流動性が低下することも考えられる。卒業時年齢の高年齢化や流動性の低下が、直接何かに影響するかどうかは、今のところ私にはよくわからない。何か意見のある人はぜひ教えて欲しいです。

業務内容・量によっては自身の研究に集中できない

もし学生が望む「自分のやりたい研究テーマ」と「依頼された業務内容」との間にギャップがあった場合、本来は自分の研究テーマのために使いたかった学生の「労力や時間」は、業務遂行のために割かなくてはならなくなる。そうすると「自分がやりたかった研究」に集中できる時間は減り、進み具合も遅くなってしまう。これは学生にとってはとてもネガティブなことで、在籍年数の長期化とも密接に関係している。

「自由な発想」をする機会の損失

一方、研究テーマと業務内容が一致している場合にも、それはそれで別の問題があるらしい。例えば、プロジェクト型の研究は、既に研究の「ストーリー(研究背景、目的、手段、そして、多くの場合は結果も含めて?)」が決められていることが多く、もし博士研究の大半をプロジェクト型の研究に費やすことになった場合、在学期間中に、型にとらわれないような自由な発想・議論をする機会に恵まれにくい、という弊害もあるのだという。

聞いた話によれば、他国の学生から「プロジェクトがあれば雇って欲しい」という趣旨の問い合わせが来ても「あなたは何に興味があって、何が疑問で、何を解きたいを思っているの?」と尋ねると、閉口してしまう人が多いのだという。本来であれば、学生の間にその「問い」を自分の中で見出すことが、今後の研究者人生のために重要なのではないかと思われるが、ひょっとしたら「雇われた業務内容の研究を博士課程のテーマにすること」がそれをもたらしてしまっている可能性も、あるのかも知れない。

 

***

今までは「ボスに雇用され、お金を貰いながら研究をすること」は、一見するととても恵まれていて「学生にとって、とても良いこと」だと私は信じていたし、今も多くの日本人が「日本の学生は不幸である」と思っているだろう。

けど、以上のような現状を踏まえて考えると「どっちが幸せか・不幸か」を簡単に結論づけることはできないな、感じている。

 

学生に一番やさしい・ありがたい制度とは?

日本人のみならず、多くの人たちの中で画期的と思われていた「ボスに雇用され、お金を貰いながら研究をすること」は、どうやら必ずしも良いことばかりではないらしい。それどころか「自分がやりたい研究やテーマ」が明確にある学生にとっては、むしろネガティブな側面が大きいのでは、とさえ思える*3

というよりもむしろ「雇用」とはそもそも、労働に従事させるため、賃金をはらって人を雇うことを意味していて、給与をもらう以上、果たさなければいけない責任や、払わなければいけない対価(時間や労力)がある、ということを理解しておかなくてはならないのだ。

では、学生は、博士課程に期間中に、どのように生計を立てていくのが好ましいのだろうか。

日本における「学振特別研究員」という制度の存在意義

学振(日本学術振興会)特別研究員という制度は、日本の大学に進学して研究職を目指す人なら、多くの人が聞いたことがあるだろう。

特別研究員制度は、我が国の優れた若手研究者に対して、自由な発想のもとに主体的に研究課題等を選びながら研究に専念する機会を与え、研究者の養成・確保を図る制度です。(HPより引用)

博士課程で学振特別研究員に採用されると「研究奨励金」として、月に約20万円、給与のような形で支給される。

学振の制度をめぐっては、今までに「雇用関係でないから、税金・保険料・年金などを20万円の中から払わねばならず、生活費などに使える金額はほんのわずかしかない。ボーナスも有休もない!」

などといった意見が散見されてきたが、私は、この「雇用が結ばれていない」というところに、学振という制度の真髄があると、今になって感じている。

「投資」という選択肢

先述したように「雇用」とは、労働に従事させるため、賃金をはらって人を雇うものであって、もし学生が、三者から給与として金銭を受領したら、その時点で、払わなければいけない対価(労働や成果)が発生することになる。

その中で、学振特別研究員という制度は、あくまで「自由な発想のもとに主体的に研究課題等を選びながら研究に専念する機会を与え、研究者の養成・確保を図る」ことを前提としている。

言い換えると、学術振興会は、学生に対して「給与」に相当する「研究成果」を要求するのではなく「先行投資」をし「将来の日本の学術界を担う人材を養成・確保している」というスタンスを取っているのだ。

これによって学生は、

雇用こそされないものの、明確かつ確実な対価(成果)を要求されることもなく、自らの関心の赴くままに自由にテーマを決め、自分の研究を進めることができるのだ。なぜなら、この制度には雇用関係がなく、あくまで「投資」だからである。

このような「投資」という形式を取るものには「学振」のみならず「民間企業の給付奨学金」なども含まれる。

以上を踏まえると、学生にとっては「投資」という制度を活用できることが、労働も要求されず、自由度が高く、自分の仕事に集中することが許される、最もありがたいものであるといえるだろう。

 

まとめ:投資してもらえるような働きをしたいよな(願望)

人は、生活をするために、お金を稼がなければならない。そして、たとえ学生といえども、生活費を得る手段を持たないことには、学業を続けることはできないというのが現状である。

日本の博士課程の学生が生活費を得る手段は、大きく分けて以下の4つが考えられる。学生がどの手段を用いるべきか、その最適解は当該学生をとりまく環境によって様々であるが、それぞれの手段に、それぞれ留意すべきポイントがあることを、気にとめておく必要があるだろう。

  1. 親からのサポート(仕送り)
  2. 国・民間からのサポート(学振や給付奨学金
  3. 国・民間からのサポート(貸与、すなわち借金)
  4. 労働(給与)

親からの仕送りは、学生にとって「自ら働く必要がない」という点では最も負担が少ない。仕送りは親から子に対する「投資」であるとも言えるが、その仕送りは、親が労働で得た「給与」を、子が「消費」しているにすぎないことを考えなくてはいけない。

国や民間から受けられるサポートのうち、学振や給付奨学金は、先述したように、その学生が、将来、国や学術界へ貢献してくれることに対する、国や民間企業からの「先行投資」である。明確な対価(労働や成果)は要求されず、自由度の高い研究が展開できる良さがあるが、学生には、社会が「投資先として選んでくれた」ことに対する責任感をもって、積極的に研究活動に取り組むことが求められるだろう。

一方、日本学生支援機構に代表されるような貸与奨学金は、将来「労働で獲得するであろう対価(給与)」を、学生自身が「前借り」しているという状況であることを、気にとめておかなくてはならないし、学生はそれを見越した上で将来設計をする必要がある。

そして給与(TA、RA、アルバイトを含む)「限られた在学年数のうちにおこなわなくてはならない労働」に対する対価であることを理解しておかなくてはならない。在学中に様々な経験を積める「学ぶ機会」が得られるという長所を活かしながら、限られた時間を有効に使えるように、在学期間中を戦略的に過ごす必要があるだろう。

 

また、日本のみならず、世界で見た時にも、この「労働」と「それに対して得られる給与」というギブアンドテイク的な関係性は、普遍的に存在すると考えられる。また、これは学生に限った話ではなく、研究者の労働・雇用環境についても、同じことが言えるだろう。

もちろん「学生が雇用されながら研究をすること」の全てが悪いなどとは到底思わないが、私の中での結論としては、特に博士課程の学生については、学振や給付奨学金、寄付金などのような「学生に投資をする・できるようなシステム」が、国や大学・団体・企業の中で普及することが、学生が主体的に学び、集中して自身の研究を進めていくためには重要だと思う。

 

一方で、進学を望む全ての学生に投資ができるほどの潤沢な資金を持っているところは、国であろうと企業であろうと、現状ではほとんどないだろう。

おそらく、進学を目指す学生・若手研究者としてできることは、今の環境で、できうる限りの経験や研鑽を重ねることと、研究業界にアンテナを張り巡らし、学術界に貢献・寄与できるような研究テーマを見出し「自分は投資されるに足る人材である」と知らしめ、今ある制度を効率よく活用できる道を模索していくことだろう。

また、既に研究者や大学教員として働いている人は、もし進学を想定している学生が現れたら、それぞれの生活資金源に対して、以上のような側面があることを伝えた上で、どれを選択するか決めて貰うのが望ましいだろう*4

また、将来的に日本や世界で「学生に投資できるシステム」が広まっていくように、そして、それがあたりまえの選択肢として居場所を作っていけるように、国や企業・社会に対して、学術界(特に将来の日本や世界を背負って立つ学生や若手)に投資することの重要性を、常に説明・発信していく責任があるのではないか。そして「投資する価値が学術界・科学界にありそうだ」と思って貰えるような研究活動を、自らが先陣を切って進めて行くことが重要だと、今のところ私は考えている。

 

この記事が、読んでくださっているみなさんにとって「学生がどのように博士課程を過ごすべきなのか?」ということを考える一助となれたら、幸いです。

長くなりましたが、以上です。

 

*1:日本の博士課程在籍中に得られる収入源と言えば、一般的には、学振日本学術振興会特別研究員DC1 or DC2)、奨学金日本学生支援機構、民間企業など)、TAティーチングアシスタント)、RAリサーチアシスタント)、アルバイト、などがあると思われる(参考記事:いつまでも続けばええやん: 博士課程の収入源について)。

*2:日本では、博士学生は学生生活の延長と捉えられるケースが多い

*3:なお、入学前にあらかじめ長い時間をかけてボスと相談を重ね、学生の関心に沿ったプロジェクト予算を獲得してくれるような場合に限っては、問題は少ないと思われる

*4:自分で考えて決められる学生ならば、その限りではない