箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

研究職にまつわる理想と現実

最近ものすごく悩んでいる。

いや、ちょっと違う。悩みにもなりきれないモヤモヤとしたものが、常に脳の周りを覆っている感覚がある。

このモヤモヤは、何をしようにも頭に張り付いて離れなくて、いとも簡単に集中力を削いでくる。集中できたとしてもほんの一瞬で、ふとしたスキマが生まれるとそこからじわじわと侵食してくるのだ。

 

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最近、果たして自分は、研究者でありたいのか、それとも、研究というプロセスが好きなただの普通の人間なのか、と考えることがある。

 

「研究者になりたい」というあこがれや感情は高校くらいから芽生え始めたものだが、自然や環境に対する関心は、小学生の頃に、地球温暖化に関連する本を読んでからずっと心の中にあった。

科学研究が好きな理由のひとつに、私は研究というプロセスが美しいと感じる、というのがある。とある現象に対して疑問が生じた時に、一体に何が起きたのか・何によってその現象がもたらされたのか、仮説を立て、それを検証する。そして、その仮説の一般性や普遍性を、持ちうるあらゆる手段を持って確かめ、この世の真理を追究していく。科学は万人に共通する法則であると共に、万人が共有することを許されている人類の叡智である。そんな理想、綺麗事、建前とも思える事柄でさえも、堂々と宣言することができる良さが、科学にはある。少なくとも私はそれが美しいと感じている。

 

そんな憧れや幻想を抱いて、ついには博士号まで取得し、今は研究者の端くれとして働いているわけだが。見えてきたものもたくさんある。

まず、研究者として世界の最先端を走って生き抜いている人たちは、とても輝いていて、本当にスーパーマンのように見えること。

一方で、最先端を走り続けることは、我々が想像している以上に難しく、大きな重責を背負わなければならないこと。

 

おそらく、既に活躍している彼らの中に「ライフワークバランス」などといった概念は存在しない。そのほとんどがワークだ。そうでないと、まともに世界と対等にやっていくことなどできないからである。

日本を含むアジアのコミュニティは、欧米のコミュニティではなかなか認めてもらえない。たとえ「万人に平等な科学」という名の下であっても、明らかな人種差別がそこには横たわっている。そのような欧米中心のコミュニティの中で認めて貰うためには、奇抜なアイデアや、仕事の質をもって、勝負するしかない。

質の良い仕事は、短期間の小さい労力で簡単に生み出すことなど絶対に出来ない。持ちうる限りの力を出し切って、初めて世界で勝負できる土台に立てるようになるのだ。

仕事として研究をするようになってから特に、彼らが研究に割いてきた時間や労力、築きあげてきたものの重みが、よくわかるようになってきた。

 

また、私の周りで「家庭を持ちながら、世界と戦っている研究者」は、その多くが「ライフ」に相当する部分(家事・子育てなど)を、配偶者などに委ねている。完全に委ねている人からそうでない人もいるが、例えば「子を持たない」とか「子の人数を制限」して、過負荷にならないように調整していたりという話も聞く。当事者の体力の続く限り、ライフとワークを力任せで両立するというケースもあるらしい。

過負荷に耐え続けるというスタイルは持続可能的には私には見えないが、実際そのように乗り越えている人はたくさんいるように思う。

 

まだ若いうちは、自分の研究者人生について考えていれば良いから、救いがある。

でも、シニア世代に突入すると、自分のことのみならず、組織の運営など「自分以外の何か」に頭を悩まさなければいけない時間がとてつもなく増えるだろう。もちろん研究職に限った話ではないけれど、こうなるともはや、研究の最先端を自ら歩むことは、相当の体力と気力を維持していない限り、難しくなってくるように思われる。

 

私は、確かに「研究者になりたい!」と思って今まで過ごしてきたし、研究も楽しいし、好きだなーと、いつも思う。

でも「最先端を走るために、ライフの部分を犠牲にして生きることができるか?」「目に見えてしんどそう・大変そうな先輩達を見て、その後を追って、走りたいと思うか?」と言われると、

正直なところ、よくわからなくなる。

失礼なことを言っているのは承知の上である。

でも、本当によくわからないのだ。

そもそも私には無尽蔵な体力があるわけでもないし(むしろ無い方)、ワークとライフを分け合って、分担し支え合ってくれるような配偶者もパートナーもいない。人間にできることの枠が10しかなかったとしたら、私は自分の人生を成り立たせるためにワークとライフを「5:5で配分する」という選択肢しか、残されていない。

研究者として活躍している彼らが、その8-10割をワーク(研究)に費やしてやっと戦えるような厳しい世界で、たった5割しか費やせない、取り立てて優秀でもない平凡な私が、対等に戦えるとは、到底思えないのだ。

加えて私は「研究者としてしか生きる道が無い」とは全く思っておらず「もし無理ならば、他の道を探せば良い」という思想を持っている。

 

こんなことを考えていると、私はひょっとして「研究者でありたい人」ではなく「研究というプロセスが好きなただの普通の人間」なんじゃないかと、思えてきてしまう。

今いる私のこのポストは「人生の10を研究に捧げられる、研究者でありたい人」に引き渡されるべきで、その覚悟もできない、そういう環境を作ることさえできない私は、即刻退くべきなのではないかと、本気で考えこんでしまう日が、最近多くなってきた。

任期が続く限り(最大であと4年半?だろうか)は、たとえ5割の出力であったとしても、自分にできることを精一杯続けていくつもりでいる。だけど、その後どうするべきなのかは、全くもって不明である。

答えは当分見つかりそうもない。