箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

「推し」と「愛」

ああ、今日も推しが尊い

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私には推しがいる。たくさんいる。直接会ったり交友関係を持てる望みは特に無いけど大好きで仕方が無いももクロちゃんたちのことも推してるし、日常生活において推してるひとっていうのはたくさんいる。同性に対しても、異性に対しても。たとえ相手がこっちを見てくれなかったとしても、彼らが笑顔で居てくれれば、私はそれだけで割とハッピーなのだ。それがたとえ人間でなかったとしても、生命体でなくとも、概念であったとしても、推せるものは推せるのだ。存在してくれているだけで、心の拠り所になるのである。そういう愛もあるみたい。

私の中で推しに対する愛の数々を分析すると、性的指向等を鑑みても、どうしてもエロス(性愛)では説明できない。

推しと同じモノを持ちたい・使いたい、もし相手も望んでくれるのなら、仲良くなりたいなという気持ちは、フィリア(友愛)にも似ている気がする。

一方で、推しのために、給与のうちの少なくない額をはたいて、会いに行ったり、何かしらに投資していることを考えると、なんとなく、フィリアとアガペー(無償の愛)の間(もしくはもっとアガペー寄り)の感情で、接しているんだろうなあと、なんとなく思った。あくまで私の感覚では。

もちろん個人によって、あるいは推す対象によって、どこに属するかは異なるのだろうし、そんなに厳密に区切らずもっと曖昧な枠組みの中で推している人もいるのだと思う。さらに言えば、推していく過程で、フィリア(友愛)がエロス(性愛)になったり、エロスがストルゲー(家族愛)になったり、さらにはアガペー(無償の愛)になったり、などということもあるのだろう。

愛って結構流動的なのかも知れない。

難しいけど、面白いよね。

 

みんなはどう?

推しのこと、愛してる?

その愛って、どんな種類のものなの?

 

いずれにせよ、推しがいると人生が豊かになる。

私もいつか、誰かの推しになってみたいなあ。

そういう人生、歩んでみたいよね。