箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

若手の業績評価に関する雑記

本日朝、このようなアンケートが実施されていることを知り、早速回答した。

若手研究者をとりまく評価に関する意識調査

内容としては、若手研究者が「理想とするライフワークバランスと現状についてどのように感じているか」「個人の業績評価をするにあたり、重要視されていると思われる要素、されて欲しいと思われる要素」に関する意識調査という感じだった。

この結果がどのように解析され、どのような答えを導き出すのか、あるいは「予想される答え」のようなものがあるのかどうか、大変興味深いが、とりあえず自分がアンケートに回答しながら思ったことを書き留めておきたい(そのうちまとめて書き直したりすることがあるかもしれない)。

 

そもそも業績なんて数値化できない

それが教育であろうと、研究活動であろうと、そもそも短期的な成果を評価すること自体が、無理難題のような気がしている。なぜならば、教育だろうと、研究であろうと、その成果や影響というものは、一朝一夕で現れるようなものではないからだ。

単に「何単位分の講義をした」「何名の学生の指導をした」「何報の論文を書いた」「何件の競争的資金を獲得した」といって、数で評価するのは簡単かもしれない。しかし、教育であれ研究であれ、それに「意味があるものだった」と結論づけることができるのは、その教育を受けた学生本人、あるいは、その研究分野の後続の人々なのではと思う。

これらを踏まえつつ、特に若手研究者の任期が3年前後であると考えると、より一層、その教育・研究の成果を、当該人物の任期中に、本質的に評価することは、困難である気がしてならない。

 

役割に多様性があるのだから評価軸も多様であってほしい

このあたり、他の組織ではどのようになっているのか私にはまだ理解できていないが、例えば「大学」と「研究機関」では、社会的に与えられている役割が異なるはずである。

さらに言えば、一機関の中でも、部局間で役割が異なる場合だってある。例えば大学なら、学部、学部からつながっている大学院、大学院、研究所、センターなど、様々な部局が存在し、それぞれの部局で「教育」と「研究」に対するdutyには差があって然るべきと考える。具体的に申し上げると、私が所属している部局は、教育に対するdutyが低く、研究に重きが置かれているが、教員の業績評価となった場合には、学部とつながっている部局と一律で同じ基準でおこなわれる。これが何を意味するかというと、私が今後いくら一生懸命研究をしたとしても、教育に対する要求を満たせないために、システム上最高評価を獲得することが困難である、ということだ。逆に言えば、教育に重きがおかれている部局(学部など)の教員に対して、多数の研究業績を同じように求めることも、なんだか違うような気がする。

とは言っても、このあたりについて柔軟かつ公平に評価できる人を各部局に配置することが可能かどうか、といえば、それもまた難しいのだろう。

別に最高評価を得るために働いているわけじゃないけど、なんだか釈然としない気持ちを抱きながら、毎年業績を書き込んでいる。

 

じゃあ何を評価されたら嬉しいのか?

ここまでは、言わば業績評価に対する物言い(?)だった訳だが、では一体何を評価されたら嬉しいのか?といわれたら、それもよく分からない。「ポテンシャル」みたいな不確定な要素で評価されたとしても、別に諸手を挙げて喜ぶことはできないし、かといって、今述べてきたような業績の「数」で本質的な評価ができるとは考えられない。

ただ、もし「若手」ということに着目して、何か考えるための素材を提供するとするならば、せめて「若手とシニアを、同じ軸で評価しないで欲しい」ということである。

例えば、論文を一報書くにしても、講義資料を16回分作るにしても、経験を積んでいるシニアと、まだ経験の浅い若手では(平均的に見れば)必要とする時間や労力は、圧倒的に異なると考えられる*1

今のところ、そのような「経験年数に基づく傾斜評価」みたいなものを実施している例を聞いたことが無いため、運用上可能なのかどうかもわからないが、そのようなことを偉い人と話し合う場に居合わせる可能性の高い各位におかれましては、ぜひご一考いただけたら幸いに思います。

 

以上です。

*1:もちろん中にはとんでもない馬力と生産性を持った若手もいるかもしれないが、そういう方はシンプルにすごいので、良い評価を得て然るべきである