箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

適齢期女性による「結婚を『人生の墓場』にしないため」の一考察。

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適齢期を迎えたアラサーの胸中

ここ数年、結婚報告を聞く機会が増えた。

私も適齢期を迎えた人間なんだなあと思う。

ある一人の人間が、素敵な人と出会い、結婚したいと望んで、その願いが叶ったのだから、おめでたいことである。何者でも無かった「自分」という一人の人間に、生涯「寄り添っても良い」と思ってくれる人が現れて、それが現実のものになるって、本当に有り難いし、とても心強い話だよな〜と、未婚・彼氏いない歴1年の私は思うわけである。

嬉しそうに報告してくれる友達に、私は「おめでとう!」と声をかけるし、心から、幸せに過ごして欲しいなと、そう思っている。

 

けど私は、必ずしも「結婚生活=幸せ」ではないということも知ってしまっている。

よく「結婚は人生の墓場だ」と言う人がいる。

結婚したカップルの3組に1組(35%)は離婚しているらしい。

各種SNSで、キラキラして充実した、ていねいな結婚(新婚)生活が披露されている一方で、恋人・配偶者に対する不満は、毎日毎日あらゆる媒体で垂れ流されている。

ちょっとした小言から、DV、モラルハラスメントに及ぶまでの広い範囲を網羅したこれらの愚痴たちは、SNSマイクロブログのユーザー同士によって拡散され、何千何万という共感を得て、まるで魂(怨念)が宿った生命体のようにネットの海を延々と泳いでいる。

テレビを見ていれば、浮気や不倫・スキャンダルの話ばかり。乳幼児の虐待等の話も、後を絶たない。

 

こうやって表沙汰になるのは、きっと氷山の一角なんだろう。

そう思うと「私の目に見えていない部分で、実際にはもっとたくさん辛い体験をしている人がいるのかも知れないなあ・・・」と、とても苦しい気持ちになる。

だって、彼らのうちの多くは「病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、愛し、敬い、慈しむ事」を誓った中のはずなのである。みんな、不幸になることを願って恋愛・結婚したわけじゃないだろうに、なのに、なぜ、上手くやれている人たちと、そうでない人たちがいるのだろうか。

一体何が、どんな要素が、彼らをそうさせているのか。

なぜそんな結末に、辿り着いてしまったのだろうか。

それが気になって気になって仕方がない。

 

だって、原因やその背景がわからない以上、私には「絶対にそんなことにはならない」と断言できる自信がないし、対策の打ちようもない。

そんな中で、たとえ「子を産め!」と政治家に言われたとしても、たとえ自分の意思に基づいた「子供を産み、育てたい」という願望があったとしても、なかなか、恋愛・結婚する勇気や気力は湧いてこない。

自分の行動によって誰かを傷付けたり、誰かの行動によって自分が傷ついたりするリスクが増えるくらいなら、「結婚なんてしないで、生きるのに足る程度のそれなりのお金を稼ぎながら、ひっそりと生きていく方がいいのでは」とさえ、思ってしまう。

 

「結婚を『人生の墓場』にしない」ための考察

アラサーになってびっくりするのは、結婚・恋愛に関する様々な情報が、あらゆる方面からどんどん入ってくることです。その大半は結婚・出産話だったりしてソレは良いのですけど(多少は焦るが・・・)、時々、ものすっごくヘビーな話が、舞い込んできたりします。そしてそのヘビーなトラブルの話や、実体験を、集約して考察した結果「自ら墓場を作り、周囲の人間を道連れにしてしまう人」には、一定の傾向がありそうだという結論に辿りつきました。

自ら墓場を作り周囲の人間を道連れにしてしまう人の特徴

  1. 自分の人生を「他人任せ」にしている人
  2. 相手を「尊重・大切にできない」人
  3. 自分の意見を「感情や態度で通す」人

順を追って説明していきたいと思います。

1. 自分の人生を「他人任せ」にしている人

まず「自分の人生は『自分の選択』によって決めることができる」という実感が持てない人とは、周囲とトラブルになりやすいみたいです。

たとえば「自分の幸せは配偶者が与えてくれるモノ」と、本気で思っている人がいたとしましょう。その人がもし「現状に十分満足」していればよいのですが、長く一緒に生活していたら「満足できない」「納得できない」「思い描いていた生活が実現できない」という状況が訪れてしまうこともあるわけじゃないですか。

そういう時に「自分の人生を他人任せ」にしている人は、

夫婦・恋人間で協力し合って解決するための労力を払うこともなく、「こんなはずじゃなかった」「自分が幸せじゃないのはアナタのせい」と、自分以外のモノ(他人や環境)を責める傾向があるようです。

もし現状に不満があるなら、二人や家族にとってベスト、またはベターな解決策を「その都度きちんと話し合って、導き出すこと」、それを「自分の意思で選択して行動すること」が重要なはずで、その「意見のすり合わせ」こそが、結婚生活の醍醐味であり、他者と協力して家族を運営していくおもしろさなんじゃないかと私は思うのですけど、

その役割や責任を放棄してしまう人がかなりいるという事実に、驚きを隠せません。

 

2. 相手を「尊重・大切にできない」人

ここでの「相手を大切にする」というのは、「重い荷物を持ってあげる」「デートにたくさん行く」「記念日を大切にする」とか、そういうことではありません。

「相手をきちんと人間として扱う」ということです。これができない人もまた、トラブルを引き起こしがちのようです。

どういうことかと言うと、世の中には

あなたは交際相手・配偶者・家族なんだから、

自分に○○してくれて当たり前(それをしても許される)

という「役割」を振りかざして、相手の「個」を、自分の都合の良いように利用・搾取・正当化しようとする人が、びっくりするほど多いんです。

「彼氏なんだから、もっと私に優しく接してよ!」「俺の彼女なんだから、このくらい許してくれるよね」「アナタは旦那なんだから、私や子を養うのは当然の義務でしょ」「俺の妻なんだから、家事育児はお前の責任だろ」

「私」というひとりの人間は、両親から命を分けてもらい、名前を与えられた唯一無二の存在であり、他者であっても同様です。私たちは「役割」と交際・結婚するわけではなく、ひとりの「個」と共に、時を過ごしているのです。その「個」に対して、誰かが何かを強制・強要したり、行動を制限したりして良い権利など、あるはずがありません。そこには血がつながっていようがいまいが関係無くて、もし「相手が『嫌だ』と感じる行為」を自分がしてしまったのなら、素直に謝り、以降はそれを絶対に繰り返してはいけないし、相手から何らかの意思を伝えられたのなら、他でもない「自分」が耳を傾ける必要があります。

これが「相手を尊重・大切にする」ということです。

逆に、何かしてもらえて嬉しいことがあったのなら、それを「当たり前」と思わずに、毎回きちんと「ありがとう」と、感謝を伝えることが大事なのではないかと思います。

 

3. 「感情や態度」で自分の意見を通そうとする人

これは2の悪質バージョンとも言えます。

「役割」のみならず、「感情や態度」でも相手の行動を、縛る、無理に意見を通そうとする行為は、極めて幼稚で、これもまた大きなトラブルの元です。この行為が許されるのは乳幼児、ギリギリ譲歩しても、反抗期の中高生じゃないですかね・・・

何かトラブルがあった時、いくらストレスがたまっていたからといって、相手が賛同してくれなかったからといって、誰かに当たり散らしたり、誰かを傷付けるようなことを言ってみたり、そんなことをしていいはずがないです。他者の「心」や「尊厳」を、傷付けて良い権利なんて、たとえ家族であろうと他人であろうと、存在しません。

 

誰かとの話し合いの場になった時に、不機嫌・横柄な「態度」や、怒り・悲しみといった「感情」を持ちこむと、周囲の人間は「そこまでいうなら・・・」と折れて、結果として意見が通りやすくなる、みたいなことは、確かにあるかも知れません。

「他者と議論する手間」を丸ごとスキップできて、「自分の思い通り」を速やかに実現できてしまえそうな気にさせてしまう「魔力」が、この「態度や感情を持ち込む」という切り札を、何度も使わせてしまっているのかも知れません。

でも、この「切り札」は、かなりの諸刃の剣で、使えば使うほど、その回数だけ、相手の意見や考えを、封殺・黙殺することになります。そうするとどうなるかというと、その剣を振りかざされる度に、黙殺された側は、着実に不満を蓄積していきます。そしてそれと同時に、その「切り札を使い続けている人」に対しての信用度は、瞬く間に目減りしていくでしょう。

このことに気付けずに、自らの信用を自ら失墜させていく人は、割とたくさんいます。

これを繰り返してしまったら最後、愛想をつかされて交際解消・離婚となるか、相手の魂が死んでしまうかの、どちからになるでしょう。

もし、交際関係・結婚関係を続けていきたいと願うのなら、

危険すぎる「諸刃の剣」はさっさと捨てて、安易な手段に頼らず、二人や家族にとっての「ベスト」、ベストでなかったとしても「それなりにベター」な解決策を導き出すための「努力」を、絶対に惜しんではいけません。

議論することが「円満な関係性を築いていくためのスキップできない重要なプロセスである」ということに、早く気付いた方が良いと思います。

 

ダークサイドに見る「精神の幼稚性」と「攻撃性」

以上の3つが、私の中では「人生の墓場化」を避けるための結婚生活の秘訣(?)になりそうだということがわかった訳ですが、これらに共通していることとして「精神の幼稚性」という要素があるんじゃないかと思います。

上に記したようなダークサイド*1に墜ちかけてしまっている人々の話を見たり聞いたりしていると、なんだか

まだ身も心も子供だった頃の「自分で自分の環境を選ぶことができなかった」時の、あるいは「無条件で自分が守られ・許されていた、あるいは与えられていた」時の「面影」を、節々から感じてしまうのですよね。

彼らはひょっとしたら、その子供だった頃から「精神がうまくアップデートされていない、成熟できていない」のかも知れないと、私には感じられました。「なぜそうなってしまったか?」という理由は、それぞれの育ってきた環境によると思うので、わからないのですけど、なんとなくそう思えるのです。

 

一方で、ダークサイドは、精神が未熟だろうが完熟であろうが、万人が持ちうる・墜ちうるものだとも、思うんですよね。

それは、誰もがみんな、多かれ少なかれ「心の弱さ」を抱えているからです。その心の「弱いところ」を守るために、ある人は「話を聞いて欲しい」「共感して欲しい」「手を貸して欲しい」と打ち明けるし、ある人は「誰か」あるいは「環境」が悪い、自分は悪くないのだと、主張するのだと思うのですけど。

でもその「弱さ」を守る手段として、どんなに自分が辛い状況にあったとしても、絶対に絶対にやってはいけないことがあって、

それがきっと「何か」に対して「攻撃すること」であり、

それは先述してきた「誰か」や「心や身体」を「ぞんざいに扱うこと」でもあり、また「感情や態度」で「相手の行動や思考を制限したり、責めたりすること」でもあり、これらの行動に内在する「攻撃性」こそが、周囲の人々巻き込み、不幸にする最大の要因なのではないかと私は思います。

 

「何か」には、人の心や身体も、あるいはモノも含まれるし、それは自分のものでも他人のものでも、家族でも恋人・友達でも、全てに当てはまります。

人やモノを傷付けずとも、心の弱いところを守る手段はたくさんあります。身近なところにもネットの海にも、助けを求めたら誰かが答えてくれるひとがいるはずです。自分の弱さに押しつぶされそうなほど辛くなってしまった時は、専門家の手を借りてケアしてもらうことだって、できるはずです。

だから、もしコレを読んでいて、少しでも心当たりがある方は、これ以上、自分の「弱さ」を免罪符にして、自分の側にいてくれる人のことを、わざわざ傷付けようとしないでください。

傷付けてしまったその相手も、自分と同じ「弱さを抱えている人間」であることを、忘れないでください。側にいる人から与えられた傷は、他人から与えられた傷よりも、深く、鋭く刺さり、相手の心を蝕んでしまうことを、理解して欲しいなと思います。

それが理解できないのなら、きっと結婚はしない方がいいんだと思います。

 

私たちはもう大人で、多くを望みすぎなければ、自分で自分の思うような環境を選んだり、人生を切り開いたりしていける力があるはずだし、他人の人生を見たり聞いたりしていく中で「今までの『当たり前』は、当たり前ではなかったのだ」と、価値観を刷新することも、理想的にはできるはずなんです。

その理想を追求する覚悟も、責任を負う覚悟も持てないような人も、同じように、結婚には向いていないんだろうなと思います。

 

結論

以上をまとめると、こういう要素を持った人となら、たとえ大変な困難に直面したとしても、楽しく夫婦生活を送っていけるんじゃなかろうかと思いますね。

  • 自分の人生を自分で切り開いていく意思のある人
  • 相手を「一人の人間」として尊重できる人
  • 自分の意見を建設的に伝える努力ができる人、そこからベターな解を導くための議論ができる人
  • 精神が年相応に成熟している人
  • 「攻撃されると悲しい」と理解できていて、実際に攻撃しない人

ということかと思います。ハイ。

誰かの何かの参考になれば幸いです。そして誰か、もし周りにこういう人がいたら私に紹介してください(切実)

 

以上

*1:物事の暗い面。悲惨で、醜悪な面(三省堂大辞林より)