箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

ここ最近の世界のことと、私の決意。

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希望はきっとある。

 「第三次世界大戦が始まるとしたらきっと東アジアからだね」

なんていう笑えない冗談を、この間ランチの時に話した。

もちろん、戦争を肯定する話ではない。現在の世界情勢を憂いての、鋭利すぎるブラックジョークだ。

 

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うちには、韓国出身のポスドクさんと、中国出身のポスドクさん、中国出身の学生さんがいる。日本国出身者は、私と、そのボス、そして秘書さんである。私の所属は日本の国立大学にであるにもかかわらず、日本出身者は半数に留まっている。

 

私たちは、いつもみんなでランチを食べる。そして、小一時間くらい、いろんな話をする。もちろん研究についても話すけれど、それぞれの国の文化の話から、政治の話まで、その内容は多岐にわたる。ここ最近の話題といえば、やっぱり、韓国と日本の話、香港と中国の話、中国とアメリカの話などが多くなっている。

ラボでの公用語は英語だ。母国語に比べたら明らかに少ない言語表現の中で、私たちは自分の意見や、思いを話す。

 

非常に興味深いのは、みんなで同じニュースの話をしているはずなのに、それぞれの国で出回っている情報にバリエーションがあることだ。

どうにも形容するのが難しいけれど、掘り下げて考えている度合いが違うというか、私たちが知っていること(日本人が、日本にいて知り得る情報)以上に、いろいろな物事は、ほんとうにたくさんの要素が複雑な割合で絡み合って成り立っている。騒動の裏側では、いろんな人の、様々な思惑が動いていると。そういう印象を受ける。

その詳細についてここで言及することは避けるけど(∵信憑性について責任を負うことができないから)、出身国だけに留まって「そこで得る知識+自分の脳みその中の思考回路」だけをもって「事実」に辿り着くのは、とてもじゃないけど難しいことなのだなと、強く思い知らされる。

自国の情勢を分析する彼らは、いつもとても冷静で、中立的だ。

私は、どうだろうか。

冷静に、中立的に、きちんと捉えられているのだろうか?

 

そういう話をした後は、やっぱりどことなく暗い雰囲気になってしまう。ランチもあんまり味がしない。何を食べたかあんまり思い出せない。

でも、たとえその日のランチを楽しめなかったとしても、話さずにはいられないのだ。近い将来、自分の身に関わると思うと、他人事を決め込むことなどできないのだから。

 

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私は「アジア人」である。

日本で生まれた「日本人」かも知れないけど、欧米諸国から見たら、ただの「アジアの島国出身」という事実しか、そこには残らないだろう。

 

サイエンスとはもともと、歴史的に見れば、欧米諸国のものだった。

いつかの記事でも書いたけど、研究業界では、未だにアジア人に対する差別がある。

「そんなの関係無いよ」と、フラットに接してくれる人も増えているとは思うし、もちろん分野にもよるかも知れないけど、アジア人はまだ科学の世界で、十分といえるほどの市民権を得られていない。

 

そんな中で、ここで一緒に仕事をしている私たちは、

一生懸命力を合わせて、みんなの智慧を借りあって、アジアのサイエンスを盛り上げていきたいよね?という、強い意志と、希望を持っている。

私たちは、お互いのことを、世界で活躍するための同志だと思っている。

私たちには、まだまだ解き足りない謎も、知り得ない新しい発見も、星の数ほどあるのだ。いがみあったり、ましてや第三次世界大戦など、している時間はないのだ。

「おもしろくて新しい発見を、世界に知らしめてやるんだ!」と、そういう思いを持って、みんなで協力し合って、日夜努力を重ねている人、研究室は、うちだけじゃなくて、アジア中にたくさんあるはずなんだ。

 

***

 

確かに、私たちも、そしてラボにいる彼らも、彼らの家族や友人、国の人々も、それぞれの環境で育まれた、慣習や、身体に染みついた文化を持っている。歴史を持っている。視点や価値観を持っている。いろんな思想をもった人がいる。

アジア、ひいては世界中の人々が、お互いの全てを理解して、全員が納得できる答えを見つけて、仲良く平和にやっていこうなんて、実際問題としては、不可能に近いかも知れない。

 

だけど、そうなんだけど、だからこそ私は、より一層、相手の意見には、慎重に傾聴したいと思うし、できる限り尊重したいと思うのだ。

そして、もし可能ならば、相手が誰であろうと、恐れることなく、対話をしたいし、議論がしたいし、たとえみんなにとってのベストではなかったとしても、よりベターな(現状よりはマシと思える)解決策を、一緒に見つけたいと願ってやまない。

 

 

でも、その一方で、

「価値観の違い」や「多様性」を受入れた上で

  • 事実をきちんと見極めたい、と思ったり
  • 結局私たちはどうしたらいいのか?と、きちんと考えたり
  • そのための対話をしたりしたい

と思って、冷静に議論をすることができるのは、「研究者」という特性を持っているからこそ、できる話なのかも知れないなと、思うこともある。目的を果たすために、真理を追究するために(時には自国を飛び出してしまうほどの)能動的な行動力がある人間だからこそ、成し得ることなのかも知れないなと、思う部分もある。

 

だとするならば、まだ科学の世界には救いがあると私は思う。

まず私は、志をともにする隣人達と、科学の発展に貢献するための努力をしていきたいし、そしてそれを足がかりに、どんなに複雑な問題に対しても、対話をすることを恐れたり、諦めたりしない、そして、自分が意見を言える時には、提案できる何かを持ち続けたいなと思う。

そして、もしいつか偉くなって、何かを決定する権利を得られるようになった時、全体的に見た時に、ベスト(またはベター)な選択を責任もってきちんとできるような人間でいられるように、考えることを続けたいなと思う。