箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

わかり合うのではなく、わかり合えなさを許容してくれる人間と生きていきたいという話。

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「○○さんは、気が利かないところがあるよね」

「もう少し気が使えるようにならないと、この先やっていけないよ」

 

大学生の時に、とある教授に言われた。

私はその時、飲み会に同席していた。その教授と、とあるゲストと一緒に、居酒屋にいた。彼らの話は、それはそれはとても興味深いもので、お酒の席にいるのにお酒を飲むことを忘れてしまうくらい、魅力的で、私は夢中になって聞いていた。とても楽しかった。

話が盛り上がりを見せる中で、私は、その教授や、ゲストのグラスが空になっていることに気が付かなかった。そんな状況で、教授に言われたのだった。

 

当時の私は、その教授を含む部局に所属する学生だった。

学生が教員や教員のゲストに対して、積極的にお酌をする理由が、私の中では特に見当たらなかった。というか考えたこともなかった。

彼らは、私の「上司」ではないし(教授は指導教員ではないし、ゲストは共同研究者というわけでもなかった)、私自身はただの女子大学生で、ホステスではない。お酒をたらふく飲ませて酩酊させてやろう、などという目論見も、当然ない。 

 

そもそも、私には「目上に人に対してはお酌をしなさい」という文化が、いまだに理解できないでいる。

だって、そういうのって、自分に対してポジティブな影響を与えてくれた人(いつもお世話になっている人、何か良い仕事をした人、贔屓にしてくれた人、とか?)に対して、感謝の気持ちを表現したり、「さすがです」「今後ともどうぞよろしく」とヨイショしたかったり、ただオススメの美味しいお酒を飲んで欲しかったり、そうやって「能動的にやりたくなるもの」であって、他人に強要するものじゃないんじゃないの?と思うわけである。

 

確かに、その教授とゲストさんの話は面白かった。

私に楽しい時間を与えてくれた当事者たちである。そこについては感謝している。

 

でも、私という人間は、人のグラスが空いているかどうかをずっと気にしていたら、「先生、次は、何を飲まれますか?」と尋ねるタイミングを伺っていたら、その場で繰り広げられている話になんて、全く集中できなくなってしまうのだ。マルチタスクが苦手なのかもしれない。

せっかく相手がお話してくれているのに、こちらが「グラスのことばかり気にして上の空」というのは、それこそ失礼にあたるんじゃないか?

などと思うわけである。

 

みんながみんな、その場の話を聞きつつ、場を盛り上げるような言葉を述べ、他人のグラスに気を配って、うまいこと立ち振る舞えるわけじゃない。

 

今となってはこうやって自分の意見を述べることができるけれど、

当時の、他人の言葉を真っ直ぐに全て受け止めてしまう、まだ純粋だったころの私は「あ、私って、相手の気持ちをくみ取って行動するのが苦手なんだ」ということに気付かされ、たいそうショックを受けたのであった。

 

なぜなら「そういうスキルは、会社に入ってから重要になる」という価値観があることを知っていたし、今後身を置くであろうその環境(気を遣いながら生きていくこと)を迎合できない私はきっと、影で「あいつは使えない」「コミュ障」「社会不適合者」などと、蔑まれたり、傷つけられたりする人生が始まってしまうのか、ということを不安に思ったからである。

 

唯一救いがあったのは、そのゲストさんが

「あなたがそんなことに気を遣って行動する必要は全くない」

「飲みたくなったときに勝手に自分で飲むから良いです」

 

と、言ってくれたことである。

たとえフォローだったとしても、私が救われたのは事実で、もし私が責任ある立場についたら、お酌を強要する側ではなく、こういう人間になりたいと思ったのであった。

 

***

 

少し、話を変える。

 

「どうしてわかってくれないの?」

 

これは、相手を一方的に責め立てる言葉である。

この言葉の最も救いのない点は、

言った方は「なぜ相手は自分の気持ちを理解してくれないのだろうか」と傷付いているし、言われた方も「私が何をしたというのか」ということがわからずに傷付いてしまうし、言ったところでどちらも幸せになれないところにある。

 

なぜ人は、わかりあえないのか。

なぜ人は「大切な人にほど、自分のことを理解して欲しい。自分の考え、思想、感情を、肯定して、正しいと言って欲しい」

と、願ってしまうのだろうか。

そしてそれが達成されないとなると、途端にその関係性が崩壊してしまうのだろうか。

 

私はというと、この言葉、言ってしまったこともあるし、言われたこともある。案の定、言った相手とも、言われた相手とも、関係性は崩壊してしまった。

 

思うに、こういう問題の大方の原因は

  • わかるように伝えていない(伝える手段を間違えている)
  • 相手は伝えてくれているけど、理解ができない(共感力が足らない)
  • わかったつもりになっていて実はわかっていない(行動を間違えている)
  • そもそもわかるつもりがない(相手の心中に関心が無い)

というふうに、まとめられると思う。

4つめは別としても、おそらく、他者同士がわかりあうためには、「適切な手段を持って気持ちを伝えて」「相手の気持ちに正しく共感し」「相手のニーズにあわせて最善の行動を取る」努力を継続的に重ねていく必要がある・・・

 

・・・

 

・・・本当にそうだろうか?

 

私の中では、この「心中をお察しする努力」って、無駄なんじゃないの?

という答えに、行き着きつつあるんですよね。

 

それはなぜか?

 

相手の気持ちを考えて「くみ取ろう」という努力をしたとしても、

  • 向こうの考えと、自分の考えが同じになるとは限らない
  • そもそも、気持ちを察するのが苦手な人間もいる(私のように)
  • そもそも、気持ちを勝手に解釈されて行動されるのが嫌な人間もいる(私のように)
  • その結果、お互いが不快・不幸になる

という問題があるから、である。

 

この「気持ちの読みあい」によって、いつか疲れてしまったり、壊れてしまったりするかも知れない「不確かさ」を抱えた関係性を構築するくらいならば、「わかり合えないこと」を大前提として、人と付き合っていくのが一番なんじゃない?

「話せばわかり合えるよ」なんていう綺麗事を並べて息苦しくなってしまうよりも、「わかり合えないこともあるけれど、彼/彼女の考えは尊重したい」という気持ちを持って接することの方が、よっぽど大切なんじゃないの?

と、思うわけです。

 

究極的には、自分以外は全員他人なわけだし、たとえ何年一緒にいたとしても、同じ釜のメシを食っていようと、育った環境も、持っている視点も、思想も異なるわけで、そんな人間同士が「わかり合える」なんて、できないんじゃないかと思うんです。

 

というよりも、相手のことを「わかったつもり」になってしまうことって、ものすごく傲慢なことなんじゃないかなと、私は思うのですよ。

私もあなたも、簡単に心を読み解かれてしまうほど単純で簡単でチョロい人間じゃないと思うんですよね(自分で自分のことが理解できないことだってあるのに。笑)。

 

だから最近では、私はわかり合うことを諦めています。

「そんなのドライすぎる!」「こんなのコミュ障の言い訳だ!怠惰だ!」と言われるのなら、まあそうかも知れない。でも私はそれで別に良いんです。

この世の中には、コミュニケーション力の塊のようなスーパーマン/ウーマンもいるし、そういうのが得意ではない人だっている。

あるいは、苦手だけど、習得しようと頑張っているという人もいる。

どれが正解とか不正解とか、ああするべきこうするべきとか、そんなのはどうでもよくて、

当人がやりたいように行動しているのなら、その生き方についてヤジを飛ばされる謂われはないわけです。

強くなったな、私も。笑

 

ただ「察するのが苦手」「わかり合う必要は無い」と言いつつも、他者との対話することそのものに意味がないとか、価値がないとか、そういうことを言いたい訳ではないのです。

 

誰かとの対話は、多くの場合、自分の視野を広げてくれるし、新しい価値観を与えてくれる。

相手の気持ちを察せなかったとしても、意見が異なる相手だったとしても、飲み会での立ち回りや、コミュニティでの振る舞いがうまくできなかったとしても、

1対1で、きちんと対話して、気持ちや考え方を伝えることで、関係性を築けることもある。

私の周りいる人たちは、それを理解してくれる人ばかりで、本当に助かっている。

 

「私はこう思うんだよね。」

『ふうん、あなたはそう思うのね。そういう考え方もアリかもね』

と、相手のことを尊重しあえる関係性の方が、精神的に健全で、自由でいられるんじゃないかなって思うのです。

私にはこの生き方が多分合っている。

そういう関係性を、これからも色んな人と築いていきたいな。

 

そんなことを思ったのでした。

 

追記:9月23日

前半の話と後半の話では、状況がだいぶ異なることに、公開した後に気付いた。

自分の身の回りの人間関係(友人関係とか、結婚相手とか)を自分で選べる状況だったら、私は「無理」をせずに生きればいいと思うし、私もそうしたいと思っている。

けど、仕事をしていたら、そうもいかないことも、まあそれなりにたくさんある。

「若い人間がお酌をするもの」「若い人間がグラスを気にかけ先んじてオーダーするべき」という価値観を、信じて疑わない人もたくさんいる。それを身につけるために努力をしている人もきっといる。私は彼らを否定するつもりはない。けど、自分にはうまく立ち振る舞うことができない。これはもうどうしようもないのだ。

この「自分にはどうしようもできないことに対するストレス」で疲弊したくない私は、ここ数年は「できる範囲で」グラスを見るようにしているし、「気付いたら」オーダーするし、「気が向いたら」サラダを取り分けてみたりすることにしている。

それでもヤイヤイ言ってくる人のことは「ふむ、私とこの人は違う人間だから価値観が異なるもの仕方ないよな」と思うことで、ストレスを貯め込まずなんとかやり過ごすことができている。不意に傷付くことも減るから、結構オススメですよ。

誰かの参考になれば、幸いです。