箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

情報との共生。インターネットとサードプレイス。

情報化社会。情報社会。

私は中高で、現代社会のことを「情報社会」と習った。でも今の日本(あるいは世界)は、もう既に情報にあふれかえった「情報社会」なのだと思う。

 

調べればすぐそこに情報がある。かつては「ggrks(ググれカス)」なんて使っていたネットスラングググる」さえ、今では一般的に使われるようになった。

情報にすぐにアクセスできることで、世の中はすごく便利になった。

アボガドロ定数っていくつだったかな」「ファウストの作者って誰だったっけ」とか、いつか学んだけど日常生活からこぼれ落ちてしまった情報を、自分の脳みそライブラリの中から探し出すことよりも「アボガドロ定数 いくつ」「ファウスト 作者」って検索した方が、よっぽど早く、知りたかった答えに出会える。

世の中にあふれかえっている情報は、既に私たちの脳みその役割の一部を担っている。「もし次に生物進化や共生が起こるとするならば、その相手は機械である」といったような文言を日経サイエンス紙で見かけた記憶があるが(曖昧、後で調べます)、あながち間違っていないのかも知れない、という風に思う。

でも最近思うのは、こういう便利な使い方が有効なのは、個々人の中で情報リテラシー能力が十分に確立されている場合に限るんじゃないかなって。それを確立できていない人間が、溢れんばかりの情報にさらされ、渦に飲まれてしまったら、なんというか、方向性を見失ってしまうんじゃないかって、心配してしまうのである。

 

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この間、高校生に向けてとある講演をしてきた。10歳以上も若い彼らは、もしかしたら生まれた直後から情報社会だったのかも知れない。

講演の話が出てから、何を話そうかなって、ずっと考えていたんだけど。ある日、自分が高校生だった頃のことを思い出した。

私は高校生の頃、かなり孤独を感じていたし、人のことを全然信じていなかった。日常生活の中で「キミは悩みがなさそうで本当に良いよね〜」と言われ「(んなわけあるかよ!?)」と心の中で叫び続ける一方で、でもそれを誰かに言い出す勇気はかなった。「こんなネクラな自分、受け入れてもらえなかったらどうしよう」という不安の方が、自分を理解して貰えない孤独に耐えるより辛さよりも、勝っていたのだ。「えへへ、そうなの〜」ってヘラヘラしている方が、楽だった。

そんな中で私の救いとなったのが、山(自然)と、漫画アニメ、音楽だった。自然はただただ、そこに存在していて、私を拒絶することは基本的にはない*1。漫画やアニメや音楽は、作者が一方的に発信する思想やメッセージを、受取手である私たちが「見るかどうか」そして「そこからメッセージを選び取るかどうか」を選択できたし、そこから自由に解釈することも許されていた。私はそういった、普遍的に存在する何かや、作品に向き合っている間は、とてもこころが落ち着いていたし、私は、私の脳みそや心の中で、とても自由でいられたのだ。そして、その思いを共有する媒体として、インターネットが大きな役割を果たしていた。「この世界観が好き!」「こういうところが魅力!」ということをあけすけに述べて「わかる」と言ってくれる人に会えた。私にとっては、あのインターネットが、サードプレイスだった。

 

・・・そんなことを考えながら「と、いうことは、情報社会に生まれ育ったキッズたちは、私が高校生だった当時よりも、はるかにサードプレイスを見つけやすいのかも知れないなあ。いいなあ・・・」と、ついこの間までそう思っていた。でも、違うかも知れないと、ここ数日で気付いた。

 

もし人間が作り出した「情報社会」が、サードプレイスを見つけやすくしているのならば、孤独を感じる機会の減少に貢献しているとするならば、若者の自殺率は、減少していて然るべきなんじゃないかと、思うわけである。

自殺率、未成年が最悪=SNS相談2万件超-政府白書:時事ドットコム

人口10万人当たりの自殺者数を示す自殺率は、18年は全体で16.5と9年連続で低下し、統計を取り始めた1978年以来最も低かった。ただ20歳未満は前年比0.2ポイント増の2.8で、78年以降最悪となり、若年層の自殺が深刻な現状が浮き彫りになった。

 

多分なんだけど、情報社会に生きる人々は、溢れんばかりの情報に晒されることによって、人と人とがつながりやすくなってしまったせいで、サードプレイスを、サードプレイスとして、活用できなくなってしまったんじゃないかなと、思う。

自他の境界がどんどん曖昧になって、みんなが過干渉というか、監視してくるというか、あらゆる人間から、善意も悪意も、同じくらい受け取りやすくなってしまったんじゃないかと。

まわりと簡単に比較できるようになってしまったから、自分が何者なのかが余計に気になってしまうのだろうし、自分の社会における立ち位置が気になってしまうし、何者でもない、何者にもなれないかもしれないという気持ちになって、必要以上に落ち込んでみたりするんじゃないだろうか。

簡単に誰かとつながれてしまうからこそ、他人が何をしているか気になってしまったり、その相手と比べて自分が優位かどうか考え出して、自分を否定したり、相手を否定したり、攻撃したりしてしまうんじゃないだろうか。

・・・とか色んなことを考え出したりして、最近では、便利さを追及して人間が構築した社会自身に、人間が殺されているように見えてきてしまった。きっと、こんな展開なんて誰も望んでいなかっただろうに。極端かも知れないけど。

 

私たちが狩猟民族だった頃は、自分たちの周辺以外の情報や他の集団と、滅多に会うことなんてきっとなかったし、多分、そういう集団と比べる必要性がなかったんじゃないかな。何かを比べていたとしたら「今日俺はこんな獲物を捕らえてきたぜ!」って、メンズたちが「自分が集団のボスとしてどれだけふさわしいか」を、争う時くらいだったんじゃないかな。

そしてその後文明が発達していって、自分とは異なる文化を持つ人たちの存在を知るようになってから、集団同士の争いが生まれるようになったんじゃないかな。例えば「宗教」って争いの大きな火種になることが多いけど、異教徒と出会うことがなければ、気にすることだってなかったはずじゃない?

そういうの全部、文明が生んだ歪みなんじゃないかなって、思うのである。

 

まあ私の考えの信憑性は皆無であったとしても、やっぱり、情報社会に生きる我々(自分を含む)のことを、私はとても憂いてしまうのだ。

だって実際に、私自身が、周り(しかも、インターネット上で知り得るほんの上っ面の情報のみを対象にして!)、自分の立ち位置を比較してしまう癖があるし、それで勝手にうらやましがったり、落ち込んだりしてしまうことがあるからである。他にも「私に宛てているかどうかさえわからないエアリプ?におわせリプ?」に反応して、怒ったり哀しんだり、喜んだりしてしまうこともある。さらには、心にあまり余裕が無いときに、「容易には解決しがたい問題」がタイムライン上に流れてきて、更にダメージを食らったりだとか、そんなことがたくさんあるのだ。

こんなことは、ヒトが人生を全うする上で、本来は抱く必要性のない苦しみなんじゃないかと、思うのである。不毛だ。

多分、最近SNSに疲れてきた人、こういう側面があるんじゃないかなあ。

 

それでさ、それなりの情報に晒されながらも個を失わずにサバイブしてきた自分ならまだしも、まだ情報リテラシー能力が未発達な若い子達がさ、様々な情報に晒されて、鵜呑みにしてしまって、それに惑わさたり、自分を見失ったりしてしまっているんじゃないかあ…と思うと、本当に心配になってしまう。まあ、これも過干渉なのかも知れないし、大きなお世話なのかも知れないけど…。

 

もう情報社会になった事実は変えられないし(冒頭でも話したように)その恩恵にあずかっている身としては、アナクロニズムを唱えるつもりはない。

でも、私たちは、心を消耗しないために「時には情報を遮断できる」という選択肢を持っていることを、忘れないようにしたいなと思う。

そう、それは電波の届かない山(他の自然でも◎)に駆け込むことや、スマホの電源を切って、自分の大好きな(私にとっては、漫画や音楽の)世界にさっさと逃げ込むことなんだと思う。きっと彼らは、いつでも私たちを受け入れてくれるだろうから。

10年前のあの時と同じように。

 

*1:たまに悪天候に襲われて、立ち入ることを許されない…ということはあるけど