箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

インセンティブディバイドという問題(東大前期入試問題を見て)

日本トップの東京大学二次試験1日目最初の科目第1問の冒頭が「教育を媒介に階層構造が再生産される事実が、日本では注目されてこなかった」はさすがにキツい問題開いてギョッとした

このツイートがTLに現れた時、正直オッ!と思いました。昨年度話題になった、平成31年度の東京大学の祝辞の内容と似た文脈での出題。格差の隔たりが「どこ」で生じるか、生じた結果として何が起こるかなど、視点こそ異なるけれど、東京大学(少なくとも作問者である教授陣)は、日本一の高等教育機関としての矜恃を持っているのだろうということが伝わってきました。

以下は今回のことを受けての雑記です。私は社会学の専門家ではないので、視点が抜け落ちていたり、学術的に異なることを述べていたりしたら教えて欲しいです。

ミルフィーユ階層:スポンジ側が知らない世界、ミルフィーユ側が知らない世界がそこにはある

「日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです」:

私は今回出題された原文は未読なのですが(出典がわかる人は教えて下さい 追記2/26:出典は小坂井敏晶「「神の亡霊」6 近代の原罪」だそうです。Sさんありがとうございます!)、おそらく一時期話題になった「ミルフィーユ階層」の話なのではと推察しています。

参考記事:「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている

「日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです」
「日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです」
「日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです」
「日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです」

日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。

「大卒というのは、18歳からの4年間で1000万〜1500万円くらい自分に投資をして、将来の成功のためのチケットを買うこと」だ。*1
最初から子供に投資をするメリットを感じないーーあるいはできないーー家庭もある。そこで生まれた子供には親の学歴を超える動機はない。そんな子供の割合が高いのが、高卒親の家庭になる。

(大卒家庭に育った子と、高卒家庭で育った子では)そもそも、勉強に対する動機付けがまったく違う。

自分の学歴は、たまたま、そういう環境に生まれたことに大きな要因がある。(中略)大卒エリートは大きな枠でみたときに、どういう環境で自分が育ってきたか、を考えないといけない。

おそらく、こういうことを考えさせる目的で出題したのではなかろうか?と思います。分断が進んだ社会においては、学校歴に準じて、周囲の環境や、見えている世界が、大きく異なっている可能性があると。それがたとえ同じ「令和」という時代を生きていたとしても。そして「自分と異なる階層」から見えている世界の現実は、意識して能動的に見ようとしない限り知り得ることはできない、ということ。さらにこのような「分断」は、学校歴のみならず、あらゆるコミュニティ間(わかりやすい例で言えば、ジェンダーの違い、地理的な違いなど)で起こり得るということ。

この出題は「東大卒」という日本最上位といえる学位を取得する見込みがあり、なおかつ将来的に日本社会を主体的に構築していく可能性のある若者(受験生)に対して、ノブレス・オブリージュ*2という考え方を、知り、考え、学んで欲しいという、東大の作問者からのメッセージなのではないかなと思います。それこそ、今受験をしている彼らは「再生産されつつある世代」である可能性が高いわけですから「まずこの現状を知って欲しい」という願いが込められていたのではないでしょうか。

そしてなによりも、この現代社会が抱える問題の核心に迫る文章を「入試」という「受験者全員が読まなくてはならないもの」に採用したこと自体が、ものすごいことなのでは?と、私自身は感心しています。作問者もすごいけど、これを許した総長もすごい。まあ、上野さんに祝辞をお願いした段階で、その片鱗は見えていたわけだが…

 

インセンティブディバイド」という根深い問題

ミルフィーユ階層が構築されその隔たりが年々堅牢になってしまっているひとつの要素であると私が思っているのが、タイトルにも挙げたこの「インセンティブディバイド(incentive devide)」というものです。これは「学習意欲の格差」を意味する言葉で、私はこれを東大祝辞の時にいろいろ調べて知りました。

私自身は、高卒の母と大卒の父の元に生まれ、基本姿勢として「学力が伴うのならば大学に行きなさい」といったものでした。私自身も「私が求めているものは高校には無い。大学に行かなくては」と思っていた*3ので、親子間での方針に差異はなかった(ただ、家計が潤沢だったわけではないので、塾に通うの難しいし、私立大をバンバン受けられるほどの財源は無いし、受かっても学費の工面が…という感じでしたが)。

当時は「私も塾に通えていればなぁ」と思ったこともありましたが、たとえそうだったとしても、総合してみれば私は恵まれていたのだなあと思います。なぜなら、上記本文中にも、祝辞の中でもあったように

最初から子供に投資をするメリットを感じないーーあるいはできないーー家庭もある。そこで生まれた子供には親の学歴を超える動機はない。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。(祝辞より引用)

というように、中学生〜高校生時代に、大学で学ぶことに対する「意欲」をそもそも持てるかどうか、そして、大学で学ぶための準備(つまり受験勉強)をきちんとできる環境に身をおけるかどうかで、将来的に、自分がスポンジ側に行くのかミルフィーユ側に行くのかが、おおよそ決定してしまいやすいように思えるからです。

また、自分の人生を左右しうる極めて重要なこの判断に、高校生という立場上、親の意見が介入しやすいという背景もあるかと思います。多くの家庭では、基本的に親が家計を支えているわけで、家族からの協力(主に経済的支援)が無い状態で、あの大変な受験戦争を耐えるのは、相当に困難であると私は思うのです(そんな中で、自力で乗り越えてきた人のこと、私は本当に本当に尊敬する)。

 

そしてこの問題、確かに「構造的な問題で学習意欲に格差が生まれて、その結果として社会が分断されてしまう」というのもよくわかるのだけど、

個人的な意見を言えば、結局は「親と子の関係性」に問題が帰結していくような気がしてならないんですよね。たとえそれなりにお金がある家庭に生まれたとしても、虐待とか、選択肢を奪う(親が全て決めてしまう)とか、家庭内モラハラみたいなことをする家族が近くにいたら、受験や学びに対してのみならず、あらゆるものに対する意欲って、削がれ続けて、心が摩耗していってしまうと思うんですよね。「何クソ!見返してやる!」という反骨心で頑張れる人も、中にはいるのかも知れないけど…家族と意見が食い違って否定されるとか、そういう「苦痛や絶望を耐え抜く」という決断を毎日毎日繰り返さなきゃいけないというのは、ほんとうに大変だろうし、「もういいや」って諦めていってしまう人の方が多いんじゃないか…と思ったりするわけで。逆に、いくら家が貧乏でも「あんたがやりたいなら応援するよ!」って、夜食のおにぎりをひとつ作ってくれるだけで、なんならどん兵衛にお湯を入れて持ってきてくれるだけでも、意欲が湧いたりするもんなんじゃないのかなあ、と、個人的には思っています。

 

***

以上、雑記なので特にまとめみたいなものも無いのですが…私が思う「格差を生む重大な要因の一つ」として、やっぱり生まれ育ってきた環境にあるのではないかなと思います(特に家庭環境)。これは、親が意図していようがいまいが、やっぱり個々人が見ている世界にはある程度限界があるわけで。その限界を突破できる可能性があるわかりやすい手段が「学問」であって欲しいなと、私は思います。

私にもし、子を持てる日が来るとするならば、子供の「やってみたい!」というポジティブな動機を無下にせず、一緒に大切にできるように、学びたい意欲を削がないようにしたいと強く思いました。

そして、今回みたいな「格差」とか、他の社会問題とか、こういうことを認知して考えられるようになったのは、大学時代にいろいろな家庭出身の人に出会って、彼らの境遇を知ろうとしたからなのかなと思います。人はつい「自分に見えている世界」だけで物事を説明しようとするけれど、そこには必ずといっていいほどバイアスがかかっていること、何かを語る時にはそれを自覚しておく必要があるなと思いました。

そして、たとえ大学進学の有無でどちら側かに属することになったとしても、他人の意見にきちんと耳を傾け、想像力を働かせ、相手を尊重し、相互理解を大切にすることができれば、このような分断というのは(理想的には)最小限で済むはずなんじゃないかと、私はそう願いたいです。

 

おしまい

*1:これに関しては疑問。大学でできることはせいぜい、学びを通して視野や可能性を広げることくらいで、その後成功するかどうかは本人と運次第だろう。今回の文脈とは合わないのでこれ以上は述べない

*2:ノブレス・オブリージュNoblesse oblige)」は、フランス語の「貴族(Noblesse)」と「義務を負わせる(Obliger)」から誕生した言葉。この言葉には、財産や権力など社会的地位を有する者は、それ相応の社会的または道義的義務を負わなければならない、という意味がある。欧米では一般的な道徳観で、ノブレス・オブリージュ自体に法的責任は無いが、ノブレス・オブリージュに則って行動しない富裕層は、社会的な批判にさらされる、あるいは倫理観や人格を問われることがある。自己だけではなく他人のために行動できること、社会的模範としてふるまうことが、社会的地位のある人に求められる人物像といえる。参考記事はこれです。

*3:地球科学を勉強したかったので。高校は私の居場所じゃないって思っていた。