箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

拝啓、この春大学に入学したあなたへ

こんにちは。皆様、この度はご入学おめでとうございます。

今の時世ですと、せっかく入学した先でも、本来ならあるはずの歓迎会とか、開催して貰えなかったのかも知れませんが、その分、できる限り私が祝福します。義務教育、高校教育を無事に終え、各々の努力の末に、無事に大学入学という人生の節目を迎えることができたこと、それを達成できた皆さんに、改めて敬意を表します。本当におめでとうございます。

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職場で咲いたサクラ(鉢植)の花も、皆様の入学を祝福しています


ところで私は大学で教育者・研究者として働いているものです。今、日本では、新型コロナウイルスの更なる拡大が懸念され、大学から授業の開始時期を繰り下げを告げられたり、政府や自治体からは外出を控えるように言われてしまったり・・・困ったものですよね。皆さんのみならず、日本中、いや世界中の人が、これから先、この騒ぎが収まるまでどのように過ごそうかと、考えあぐねているのではないかと思います。

春って、ヒトも他の生き物もエネルギーに満ちあふれていて、せっかくいろいろなことを始められる機会なのに、ウイルスによってそれが奪われてしまったような気がして、なんだか悔しいですよね。でもそんな悔しさも抱えつつも、みなさんは無事に大学に入学しました。そして時が過ぎれば、待ちに待っていた大学生生活がスタートします。

 

今回この記事では「大学生生活が、いざ始まるぞ!」となった時に、少しでも参考にしてもらえたらいいなあ、と思えることを、私の個人的な経験に基づいていくつかまとめてみました。今まさに「自宅待機でやること無いや〜」と時間を持て余している学生さんや「もうコロナのニュースを見るのは疲れちゃったから違うことを考えてみたいよ〜」という学生さんに読んでいただけたら、そして、これを読んだ後に、これからの4年間をどのように過ごしたいかということを、考えるきっかけにしてもらえたら嬉しいです。

 

「自分の意思で選ぶ」練習を始めること

選択できる喜びを実感しよう

大学進学したことによって、高校生活までとは別の「新たな人間関係」を構築できるようになった今、そして、物理的あるいは精神的に保護者との距離を置きやすくなった今、あなたは何でも選びたい放題です。

もしあなたが一人暮らしを始めた場合、何時に寝て、何時に起きるのかということも、今日のごはんは何を食べるかということも、いつ洗濯機を回すのか、いつ干すのか、いつ掃除をするのか、片付けるのか、ゲームをするのか、遊びに行くのか、全て自分の裁量で選択できます。誰も(基本的には)自分に干渉してきません。休みの日はいつまでも寝ていることだってできます。平日の寝坊にさえ気をつければ本当に最高です。私も今日は昼まで寝ていました。

もし恋愛だったら、気になる相手と連絡先を交換するかどうかも、ラインを送ってみることも、その文面をどうするかということも、告白することも、それにOKを出すことも、お断りすることも、自分で選べます。良いですよね、自由恋愛。身分制度が廃止されて本当に良かったです。

もしもその後のことまで考えるなら、例えば企業に就職するとか、大学院に進学するとか、将来的に、どんな分野で、何を仕事にして、どのようにお金を稼いでいくのか、自分で選ぶことができます。得意なことを活かすも良し、好きなことを活かすも良し、全てはあなた次第です。

・・・と、ここまで読んで、勘の良い方は既に気付いているかも知れませんが、実は人生って、選択の連続なのです。そして、これらの「その都度の選択の連続」が、自分の今後の人生を形成していくのです。まずはこの「選択する自由」や「選択肢」を得られたこと自体が、とても喜ばしいことであると私は思います。今後の大学生生活では、その権利を、十分に行使していくと良いと思います。

選択に伴う「責任」も実感しよう

一方で、自由に選びたい放題とはいえ、実質的なことを言えば、その「選択」には、ほぼ必ず「責任」というものが伴います。

例えば、毎日ファストフードやカップ麺ばかりを食べては寝て・・・という生活をしていたら、確実に太ります。洗濯をサボれば着られる下着や服がなくなるし、部屋を片付けなければ足の踏み場がなくなります。掃除をしなければホコリがたまるし、そのうち排水溝がヤバいニオイが放ち始めるはずです。これが、健康や衛生環境に留意しなかった、労力を割かなかった「責任」ということになります。

この程度ならまだ良い(?)としても、いつか必ず、自分の責任のもとで、何か「大きな選択」をしなければならない時が、絶対に来ます。それが一体、いつ、何について選ぶのかということは人それぞれですが、わかりやすい例を挙げるなら、就職や、結婚をどうするか?ということがあります。

というのも、もしもヤバい企業に入ってしまったら、自分の時間や健康を搾取されることになるし、ヤバい人間とパートナーになってしまったら、家にいても配偶者の存在によって常にストレスを抱えてしまったり、その結果心を病んでしまったり、最悪の場合、パートナーに虐められたり、自分の子供を虐めてしまったりする可能性だってあります。

その大きな決断をする時に、できるだけ後悔の少ない選択をするために、そして、もし「やば、選択を間違えたかも知れない」と思った時に、しなやかに軌道修正できるようになるために、ぜひ、若いうちから「自分で選ぶ練習」をしてください。そしてそこから生まれた「責任」に対して「どのように対処するか」を学んで下さい。たくさん挑戦して、失敗して、そこから何かしらを学び取って下さい。そのために、私は、大学時代をその練習の場として過ごすことをおすすめします。

練習として使えそうなもの:講義の選択

「自分で選び」なおかつ「責任への対応」を実感・練習するために、ローリスクでほぼ確実にみなさんが実践できるものとして、提案したいものがあります。それは「自分の意思」で、自分が受講する選択科目を選ぶ、ということです。

大学側から配布された「シラバス」というものを見ると、大学には本当にたくさんの講義があることがわかると思います。学位を取得するために必ず受講しなくてはならない「必修科目」もありますが、それ以外にも「選択科目」として、自由に選べるものがるはずです。その時に、自分が少しでも「気になるかも」と思ったものを選ぶと良いと思います。

ところで皆さんは「今の大学」に進学することを、自分の意思で選びましたか?それとも、誰かの薦めで決めてもらいましたか?家庭環境にもよるのでわかりませんが、おそらく「私は私の歩む道を、全て自分で決めてきました!」という人の方が、このご時世は稀なのではないかと思います。大多数の人は、誰かにアドバイスを求めたり、先生や家族に薦めてもらったり、仲の良い友達に合わせたり、模試の判定結果に後押ししてもらったり、そのようにして決めたのではないでしょうか。それが悪いと言っているわけではなく、今まで「自分で選ぶという経験」をあまりつめていない人は「自分で選択すること」に対して少々不安があるかも知れませんが、講義1つくらいなら、きっと選べるはずです。

ただし、進級するために取得しなければいけない単位数はあらかじめ決められているので、そこは教員にちゃんと確認してください。そこに選択の自由はありません。

私の例:講義を自分で選択した結果、生じた責任と、その後

人の意見に流されずに自分で講義を選ぶことには、とてもポジティブ側面があります。それは、講義に対する期待値が上がる、ということです。

数多ある講義からたまたま選択したものの中で「なにこれ、おもしろい!」と思えるものにもしあなたが出会えたのならば、それはきっと、めちゃめちゃラッキーです。知的好奇心をくすぐってくる講義の存在は、学ぶための良いモチベーションになりますし、場合によっては自分の人生を支えうる「指針」となるような価値観と出会えることもあります。一方で「一体何を言っているのか意味がわからない」という講義もあると思います。こればかりは、大学教員にも得手不得手がありますので、大目に見てあげて欲しいです。そういう講義に当たってしまった時は、提示されている参考書を読んで、自ら学んでみましょう。

これは一教員としての意見ですが、「大学」というのは、中学・高校のように「先生が教科書に基づいて体系的に何かを教えてくれる場所」ではありません(ちなみこのような教育は中等教育と呼ばれ、その教育を受ける人を「生徒」と言います)。大学とは高等教育機関であり、自らが学び、問う力(課題を認識して、解決方法を探る力)を身につける場所です。大学教員はあくまで、大学に所属する「学生」に、専門知識を携えた高等教育をしているという立ち位置なのです。

ちなみに、この「自ら学び、問う力」というのは、大学在学中というよりはむしろ、大学を卒業した後に、世知辛い世の中で、強く賢く生きていく上で、非常に重要なスキルであると私は思います。

そして、大学の講義選択に生じる「責任」は「成績」として非常にわかりやすく現れます。きちんと学び、理解を深めることができれば良い成績になり、理解が及ばず学ぶことを放棄しすれば悪い成績になります。

ちなみに私が大学生だった当時は「宇宙」に大変興味があったので、所属学科から離れて物理科の講義を履修しました。が、あまりにも何もわからなすぎて、途中で講義に行かなくなってしまいました。その結果何が起きたかというと「不可」という成績がつけられました。つまるところ落第です。これが「選択の責任を取る」ということです。自分で選んでおきながら、大学生としての「学び、問う権利」を放棄したのだから、当然の結果、とも言えます。

この経験は、一般的に見れば、おそらく「失敗」に見えると思います。一方で私は、この経験によって「自分の適性が何たるか」がよくわかりました。もしも今後生きていく上で、物理学の知識が必要になった時には、自分の頭ではなく、物理が得意な人の頭(知恵)を借りることにしようと、心の底から実感できました。なぜなら、苦手な私が1から考えたものよりも、得意な人の助けを借りたものの方が、内容を信用できそうだからです。

もちろんこれが仕事であった場合には、その「内容」の確からしさの検証などは必要かも知れません。ですがこれは強がりでも開き直りでもなく、人には適性というものがあり「私にできることは、誰かにとってはできないことである可能性がある」し、逆も然りだと思うからです。私は物理の計算がすこぶる苦手だけど、もし私が貢献できるものがあるのならば、それを見つけて、育み、それを将来、誰かのために進んで提供すれば良いのだと、決意できたのです。

長くなりましたが、このように、一度選択した事実と、責任(成績という結果)は変わりませんが、経験から学び、今後への活かし方を学ぶことが、必ず出来ます。なので、何事にも、恐れずに、挑戦していくと良いのではないかと思います。

自分の世界を広げること

大学は社会の縮図:いろんな人(世代・性別・境遇)の話を聞こう

私と皆さんの間には年齢として10年のギャップがありますが、これからの令和の時代は、個人の価値観や生き方の多様性が、もっと尊重されていく時代にしたいと、責任世代である私自身(と、複数の同世代友人達)は考えています。そういう世界を実現しようとしたときに、身軽に、かつ、しなやかに行動できるのは、想像力・寛容力・価値観の柔軟性がある人だと思います。

高校までは「学校が、生活や世界の全て」と感じてきた人も少なくないと思います。一方で、大学の中には、いわゆる「高校生活」を送って来た人の中でも、全国各地から、様々な境遇を持った人が集まってきている可能性が高いです。

例えば私の場合は、大学に入って初めて、自分の出身県以外のところで生まれ育った人に会いました。それから、父子・母子家庭育ちの友人、再婚家庭育ちの友人、在日コリアン家庭の友人、宗教に厳格な家庭育ちの友人等に出会いました。ひょっとしたら高校までにもいたのかも知れませんが・・・大学で出会い、彼らが心を開いて話してくれたからこそ、知ることができたものは、たくさんありました。

もちろん、対話する相手との距離感は大切にしないといけませんが、自分以外の人が、どのような境遇で生まれ育ち、どのような事柄に対して何を考えて生きているのか、それに関して今まで自分自身はどう思っていたのか。そして、彼らの意見を知った今、自分はどう思うのか。時には、今まで抱いてきた認識や価値観を、大きく改める必要があるかも知れませんが、そうやってお互いを尊重し会えるようになると、自分のみならず、他の人にとっても生きやすい社会を作っていけるんじゃないかと、私は期待しています。

注意:でもやべえ人間からは逃げろ

お互いの主義や思想を尊重したり、意見に傾聴したりすることは、相互理解のためには必要不可欠といえます。でもそれは、自分と対話する相手の双方が、同じ認識でいる時に限ります。時として、残念ながら、本当に「話が通じない(対話を望んでいない)人」もいます。私の思い当たる範囲では、例えばそういう人たちは、とても攻撃的だったり、高圧的だったり、排他的だったり、いわゆる「ハラスメント」的な雰囲気をまとっていることが多いです。もしあなたが誰かと対話をしている時に、それらの雰囲気を感じ取ったら、全力で逃げて下さい。それは物理的に走れということではなく「ふーん、こういう人間も中にはいるんだな」と、脳内でシャットアウトして、直接的な関わり合いを可能な限り減らしていき、自分の心身の安全を確保してください。

ちなみに「何をもってハラスメントなのか」「勝手に私が感じただけで相手はそんなつもりないかも知れないし・・・」と思っている方へ。見極める手段をお教えします。その基準は、あなたに対しておこなわれた行動に対して「は?」とか「え?」とか、あなたが違和感を感じるかどうかです。あなたが疑問を感じたなら、それを見逃さないように注意してください。そして自分がハラスメントをしてしまわないためには、相手との距離感を大切にすることを心がけて下さい。

時には大学の外にも飛び出そう:自分の目で見て確かめる・経験する

「大学は社会の縮図」といえども、やはり大学の中にいてアレコレ考えているだけではもったいないです。できうる限りで「実際に体験する」「自分の目で確かめる」ということを、実践できると良いのではないかと思います。

このネット社会にいると、たとえ自分がどこに住んでいても、今の日本や、世界で、何が起きているのかということは、ざっくりと理解できるし、検索エンジンに言葉を入力しさえすれば、様々な情報を手に入れられると思います。ですが、その「誰かによって発信された情報」には、バイアスがかかっている(偏った視点で述べられている)ことがありますし、時には(悪意の有無は関係無く)ウソの情報である、ということも多々あります。

そんな中で、前述した「対話すること」も含めて、自分自身で、実際にどこかに行ってみる、何かをやってみる、話をしてみる、肌で感じ取る、という体験は、書物や情報として知り得ること以上のものを、あなたにもたらしてくれると思います。

どうか自分の世界を自ら閉ざすことなく、むしろ広げていくことを意識して、行動できると良いのではないかと私は思います。

できない理由を環境のせいにしないこと(自戒を込めて)

これは私の後悔に基づいて書きます。そして、この記事を書こうと思った動機にも直結しています。

当時の私には「大学生生活の間に留学してみたい」という、ぼんやりとした夢がありました。ですが結果的には達成されませんでした。一番の理由は「留学に必要なお金がなかったこと」です。短期留学のために当時必要と言われていた資金は2-30万円。学生にとっては、かなりの大金でした。

私はあまり裕福な家庭に育っていませんでしたが、そんな中でも両親は学費を出してくれていました。その上留学資金まで頼ることは、全く現実的ではありませんでした。アルバイトもしていましたが、留学資金の捻出にはほど遠く「いいよなあ、お金のある人は。どうせ私には行けっこないんだ」と、拗ねていました。「お金さえあれば私だって行けたのに!」と、本気で思っていたのです。

でも、本当の理由は別のところにありました。気付くまでに数年かかりましたが、私が留学できなかった理由は、ただただ私が「挑戦することが怖かったから」というだけでした。なぜなら「そのまま何もしないでいた方が、自分が挑戦できない理由を、環境のせいにできて、楽だったから」であると、気付いたのでした。

 

「今自分がいる世界から飛び出して、何か行動を起こすこと」は、それが自分のためであったとしても、他人のためであったとしても、相当の努力あるいは労力、時間が必要です。それは留学資金を工面することだったり、精神的な殻を打ち破ることだったり、色々あると思うのですが、たとえたくさんの時間を使ったからといって、労力をはたいたからといって、必ずしも成功体験が得られるとは限りません。むしろ、自分のできなさが浮き彫りになったり、挫折を伴う、辛い体験となる可能性だってあります。

自覚こそできていませんでしたが、当時の私は、その「苦難」を受け入れる勇気が無かったがために、そんな「自分の弱さ」を受け入れられない最もらしい理由を作りあげたかったがために、都合の良い言い訳の道具として「お金」を持ち出していたに過ぎなかったのでした。

それに気付くことができず、留学の機会を自ら逃してしまったことを、私は未だに後悔しています。

 

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「お金が無いから」「時間がないから」「他にやるべきことがあるから」

「やってみたい」と口では言いながら、諦めるための最もらしい理由は、実はたくさんあります。皆さんが過ごすこれからの大学生生活の中で「お金が無い」「時間がない」「他のやるべきこと」という思考が自分の頭の中を過ぎったら、果たして、それが本当の理由なのかどうか、一度、立ち止まって考えてみて欲しいです。そして可能ならば、諦めるためではなく、挑戦するための理由を、改めて探してみて欲しいなと思います。

そして、実際に留学のための資金繰りに困っている人は、それこそ大学教員や、各大学の留学を支援してくれるセンターなどに気軽に相談してみてください。学ぶ意思のある学生を無下にする人は、大学のスタッフにはいないはずです。彼らは何か手段が無いか、あなたと一緒に考えてくれると思います(もし無下にする人がいたらそれはモラルハラスメント野郎である可能性が高いので、別の人に聞いてみましょう)。

 

まとめ:10年後のあなたのからのメッセージ(だと思って下さい)

この記事を書きながら、自分自身の大学生活を思い出していましたが、確実に言えることがあります。

それは「自分のことだけに集中できて、何でも選ぶことができるこの4年間は、人生の中ではめちゃめちゃ貴重である」ということです。

ずっとお話してきましたが、あなたは自分で意思決定できる自由を得ました。そして、自由に成功も失敗もできて、そこから自由に学ぶこともできるようになりました。

実は大学を卒業して就職すると、労働の喜びを実感する機会も増えますが、行動や選択に対して負わねばならない責任の範囲が増えます。家族ができれば、家族と時間を共に過ごす喜びも増えますが、「自分」の選択は「家族としての選択」と同義なります。そして、そうこうしている間に自分はどんどん年を取っていき、そして同じ年月分、親も年を取っていきます。これからの人生、自分のことに悩める時間はどんどん減ってしまって、その代わりに他の人間関係で悩む時間が圧倒的に増えていくと思うのです。

だからこそ、この春からあなたが得た「学生として過ごせる時間」が、とんでもなく貴重であるということを、私は声を大にして伝えたいのです。どうか、自分の世界を広げるために、自分自身と向き合うために、有意義に使って下さいね。

 

ひょっとしたらこういうものは、卒業してみないと実感できないことなのかも知れませんが・・・この記事が、誰かの、何かの役に立つことを祈っています。