箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

落ち込んだので爪を磨いてもらった

ザワです。

いや〜最近ですね。自分でも自分のことが心配になってしまうくらい、メンタルの不調が続いています。連続的にヤバいというか、断続的にヤバい感じですね。私の場合は夜が大変です。昼は割と元気なんですけども。

※この記事は、私が私の心を整理するために、夜な夜なうだうだと音声入力したものを元に書いています。ゆえに、節々に具体的な辛さが語られていると思います。読むかどうかは(特に繊細な方は)自己責任でお願いします。

ちなみに、爪を磨いてもらった話は一番最後の項目で話しているので、もし気になる人がいれば、他の項目は飛ばして↓からジャンプしてください。

 

 

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気分をポジティブにもっていくためにネイルサロンに行ったときの爪。つるぴかやぞ!

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「メンタルやばいな〜」って時は大体、その原因について考えるのですが、今回はおおよそ見当がついています。主には

  • 新型コロナウィルスの影響で行動が制限される閉塞感
  • 見通しが立てられない絶望感

です。どちらか1つだけでも人を不安にさせる力が十分すぎるくらいあるのに、これがダブルパンチでやってきたのが、2020年秋、まさに今!というわけです。

 

行動が制限される閉塞感:私はこの「息苦しい生活」にほとほと嫌気が指している

2020年秋時点における、私にとっての最大のストレスの元凶が「閉塞感」です。具体的には以下のとおりです。

  1. 会いたい人に会えない
  2. 行きたい場所に行けない
  3. 職場のムラ社会
  4. 不本意に散らかる部屋

1.会いたい人に会えないストレス

私には、職場を除き、身近に会える人がいない。私は、地元(地方)と、通っていた大学(地方)と、今の職場(地方都市)が、すべて遠く離れたところにある。今のこの状況下では、全国で散り散りに暮らしている友達に会いに行くことも、実家に行くこともままならない。職場には、同期はおろか友達もいないし、職場以外に属しているコミュニティも特にない。

でも、この環境(すなわち、職場以外で気軽に会える人間が身近にいない状態)は、新型コロナの問題が出る前からほとんど変わっていない。時には「誰かと一緒に出かけたいな〜!」と思うことはあったけど、それでも、それなりに楽しみながら生活していた。では、今まではどのように正気を保っていたか?と言えば、金と時間にモノを言わせて、会いに行っていました。出かける時は、やりたいことリストをつくり、みっちりと、遊ぶand/or人と会う予定を立てて、そこで英気を養っていたのだ。

でも、今はそれができない。それが猛烈にしんどい。

いわゆる「オンライン飲み会/会話」は、何度か試した。そこでの経験では「たとえ目の前に生身の人間がいなくとも、オンラインでつながっているその間は確かに、心が安らいだり、楽しんだりできる(実際にめっちゃ嬉しいし楽しい)!」ということがわかった。情報社会に生きていて本当によかったなと、心の底から思っている。その一方で「でもこの楽しい時間が終わったら、また閉塞的な日常が始まってしまうのか。あ〜嫌だなああ」と、恐怖のような、悲しみのような感情を抱いてしまうのだ。「そんな重く考えなくても、また話したくなったら開催すればいいのでは?」と思う反面、「でもみんなにはみんなの生活があるし・・・」と、みんなの貴重な時間を奪ってしまっていいのか?気軽に誘ってよいのか?ということを考えてしまう。そういうことって、ないですかね?

確かに、新型コロナ対策の措置によって、不必要な飲み会がなくなったり、不毛な通勤時間や、望まない単身赴任生活がなくなったりしたことは、多くの人にとって良いことだったのだと思う。それはそうなんだと思う。

けど、少なくとも私の中では「みんなと話せるのは嬉しいし幸せなのに、直接会っている時のようにな自然体でいられない感じ」や「孤独を防ぐためにやりはじめたことが、相対的には個人の孤独感を増幅させている状態」に、頭を悩ませている。考えすぎなのかな?

 

2.行きたい場所に行けないストレス

会いたい人に会えないことと同等にしんどいのが、私が今まで楽しんでいた趣味たちが、ことごとく、社会的に否定される状態になっていることにある。

飛沫感染の可能性と3密の回避が叫ばれて以来、行きたかったアイドルのライブには行けないし、そもそもライブそのものが中止されてしまった。大好きな博物館にも行けないし、行けたとしても閉まっていることがある。旅行になんて当然行けない。楽しそうなイベントにも行けないし、テーマパークにも行けない。比較的容易にアクセスできるカラオケやホットヨガさえも、行くのが憚られる。

せっかく、それなりの年月をかけて、自分にとって心地よい、自分で自分の機嫌をとるためのライフスタイルを構築しかけていたというのに。それらを全て否定されてしまっているかのような息苦しさを感じるのだ。

もちろん、厳密に言えば否定されているわけではないのだが・・・感染リスクの増大を考えると、控えておくのが懸命である、というのが実情である。特にエンタメやアート系は、その煽りをめちゃめちゃに受けているよね。そのカルチャー自体が存続の危機に置かれている。非常につらい。

ちなみに私は、インドア系の趣味もそれなりにあるけど(手芸、工作、ゲームなど)、さすがにね、半年間ずっとやってると飽きてくるのよ。比較的多趣味の私がこんな状態なら、無趣味の人とか、大丈夫なのかな?って、勝手に心配になっている。

 

3.職場のムラ社会

職場でのムラ社会化が進んでいるのも、とても辛い。どうです?地方にお住まいの皆さんは、こういうの、感じたことありませんか・・・?

私の職場の公式見解としては、教職員は「県内の移動のみ」が許されている状態なのだけど、そんな中で「都道府県をまたぐ移動」をするためには、たとえ仕事だったとしても「今そこに行かねばならない必要性」を、職場の上司たちに説明し、了承を得なくてはならない。実際、重要なサンプリング(まさに「今」しか入手できない重要な試料を手に入れるため)以外では、会議もネットで十分にできるし、現地に赴く必要性がそんなにないから、制限されるのはわかる。でも、休みの日は別じゃないの?という気持ちが、ないこともない。というか、いつもの私なら「は?休みの日に休むのは当然だし、有給休暇だって使うのは労働者の権利だし、その権利をいつ使ってどこへ行こうが勝手じゃん!」と噛みつくと思うのですが・・・

職場で感染者が出てしまった時の対応*1などを考えれば、慎重に行動すべきということは、重々、承知しているつもりなのですが・・・でも・・・しんどいものはしんどいよね。

もし私が「このままだとメンタルが死んで再起不能になるので、お願いですからディズニーランドに行かせてください」と言ったら、果たしてそれは許されるのだろうか。

まあでも、その請願をもし否定された日には、私の気持ち(精神)がどうなるかわからないから、聞く勇気もないわけなんですが。

でも、個人的な意見を述べるならね。メンタルや魂を守るためならば、そういう行動を取ることもやむを得ないんじゃないかなと思いますけどね。もちろん、移動後の2週間自宅待機は必須とすべきでしょうけれど。

私自身が実践する予定は今のところないのですが、そういう人が出てきても、私は責められないなと思う。

 

4.不本意に散らかる部屋

となると、残された私の楽しみと言えば、家でネットショッピングすることくらいしかありません。何かを購入し、少しでも経済活動に貢献することは、私にとって、仕事以外で感じられる、唯一の「社会とのつながり」である。

幸いにして、いつものように旅行したり飛行機に乗ったりアイドルに貢いだりしない分、ある程度のお金があるので、割と何でも買えてしまう。好みの服や、好みの装飾品がみるみる増えていき、一時的には幸福感で満たされるが、結局は、着ていく・身につけていく機会も場所もないじゃん?というのが、私の精神的な辛さを助長させる。いきおい、家でファッションショーをするくらいである。

どれもこれも、好きで買ったもののはずなのに「今は不必要なものです」と、誰かに烙印を押されてしまい、その印の存在によって、価値が希釈されていってしまうような。そんな感覚さえある。それらのものに、生活空間が満たされていってしまう虚無感。

そして、案の定、部屋はモノにまみれ、まるで私の精神状態を反映するかのように散らかっていく。好きで買ったモノも、時にガラクタの一部に見えてしまう、得も言われぬ悲しさ。

 

先行きの見えない絶望感:将来の指針が見据えられない不安

これに関しては3種類のモヤりがあります。

  1. コロナのその後の世界の在り方
  2. ロードマップが描けない
  3. マイノリティなの?

という話です。 

1.コロナのその後の世界の在り方

ここまでの話とはちょっと質が異なるものですが。私は、しばしば

「あ〜、かつて(新型コロナが流行る前)の生活に早く戻って欲しいな〜

と考えてしまうのですが、正直なところ「そんな日なんてくるのだろうか?」というのが、常々抱えて/考えている疑問です。

片方では「避けられない脅威」の存在を認めた上で、新しいライフスタイルを構築していくことが提唱され、もう片方では、かつての自分たちの生活を取り戻すつもりでやるべきだという*2。たびたび議論になっているような気もするけれど、実際問題として、みなさんはどのように思っていますか?

私としては、どちらの意見も、痛いほどわかる。先に述べたように、私自身「あんなに好きだったアレもできないし、コレもできない」と、鬱々とした気持ちになって「(幸福を感じられていた)かつてのように戻りたい」という思いを抱えている。だけど、どうせ戻りっこないのなら、その「戻りたいのに戻れない」という感情がフラストレーションをもたらし、私(や、他の類似した気質を持つ人々)を苦しめているとするならば。いっそのこと「戻る選択肢」を捨ててしまった方が、「戻れないこと」を前提として上でより豊かに生きるための人生設計をし直した方が、生き易くなるのではないか?と思うのである。・・・と、理性的な部分ではそう思いつつも、感情的な部分で言えば、今までの人生で選び取ってきた「幸福を得るための手段」を、みすみす手放せるか?とも思えて、その間で非常に大きな葛藤がある。

今は政治家を含め、報道番組等で、多くの人が「新しい生活様式〜」と口では言っているが、実際には「感情的な私」と同様に、どこかで「元通りの世界」になることを望んでいる人が多いように感じてならないのだ。

多分だけど、この辺の話は、一般市民だろうと国の方針を決める人たちだろうと、各々の思想が強く反映されるところなんじゃないかなと個人的には思っている。

みんなはどう思う?

 

***

政治的にも信条的にも「そんじゃあこっちで!」とサクッと決めてしまうことがどんなに難しいことか、というのはわかった上でも、そうだとしても、よ。大きな脅威に対して、不安に思っている人が多いのであれば、せめて上に立つ人たちには、その具体的な方針を、どうにか示してほしいと期待してしまう。現状では、どっちつかず、良いとこ取りしたい、都合の悪い部分は見たくない、みたいな姿勢に見えてしまうところが、私はとてつもなく腑に落ちないし、悲しい気持ちになる。

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ここで私は、映画クレヨンしんちゃんの「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」を思い出してしまう。今というこの環境に、否応なしに適応して先に進んでいく「未来のみが与えられている’子供’」たちと、かつての日々に、精神的に豊かだった「あの頃」に思いを馳せて、当時の居心地の良さから抜けられずに「前に進むことを諦めてしまう’オトナ’」たち。私は、あの映画を見て、映画の世界での「オトナ」ではなく、ひろしやみさえのように「子供たちと共に未来を生きることを決意した’大人’」にでありたいと思ったのけど、今まさに、その分岐点にいるような気がしてならない。長くなるので、オトナ帝国に関するお話はここで終わりにするけれど。あれは本当にいい映画ですよ。ぜひ見て欲しい。

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と、いった感じでね。こんな状況下で「なぜ周囲の人間が、まともな精神を維持できているのか」が、全く理解できない。ひょっとして、正気じゃ無いけど必死に耐えているということなの???私は今にも気が狂いそうだけど、なんで平静を装って生きていられるの?

正気でいられる方法を教えて欲しい。

 

2.ロードマップが描けない

「将来に対する不安」というものは、今後の人生の全てに関わるいろいろな問題に対して存在する。前述したコロナ関連の話も含めて、仕事の話もあるし、プライベートの話もある。

例えば「成し遂げられたらいいなぁ」とか「経験できたらいいなぁ」と思うことは、小さなことから大きなことまで、趣味の範疇から仕事の範疇まで、山のようにある。

けど、でもその「すべて」を実現させるために、必要な労力や時間のことを思うと、ちょっと、尻込みしてしまったり、無理なんじゃないか?と気後れしてしまったりする自分がいる。だって、周りを見渡してみても「やりたいことを全部やってきた人」というのは存在しないし、皆、何かを捨てて、何かを選びとって必死に生きているように見えるからだ。

では一体、自分にとって、何を選べば「正解」で、何を選んでいけば「成功」にたどり着けるのか、ところで「成功」とは一体何なのか?などなど・・・まずそこが不透明・不確定要素であるからこそ、生きていく中で、不意に、不安になる。

行動指針とできるような、参考にできるような「確かな存在」を求めたくなるけれど、そんな自分にばかり都合のよいものなんて存在しない。たとえ「誰かの人生」を真似しても、二番煎じ(ひょっとしてn番煎じ)でしかない。自分がやりたいことは自分で選んで、道を切り開いて、進んでいくしかない。けど、当然、不安がある。

不安の感情は、リスクの感知であり、生存の危機の可能性を繊細に感じ取るためのものである。人間は社会性を持った生き物であるはずなのに、私にはその不安を共有し、対等に危機管理してくれる存在がない。例えば小魚の群れは、仲間と一緒に泳ぐことで(いくつかの仲間は食べられてしまうけど)、一部が捕食者から逃れることができ、結果的には「種」として生き残ることができる。そしてまた別のある生き物は、同種あるいは異種間で共生し、持ちつ持たれつの協力関係で結ばれ、外的から身を守りながら生きていく*3。私にも「一緒に危機管理してくれる存在」あるいは「共生関係(持ちつ持たれつ)」になれる存在があったらよいのにな〜と、水槽で泳ぐ魚たちを見ながら思う。もしくは、猫や猛禽類などの「捕食者」ように、一人でいても全然へっちゃらで、個それぞれが、敵を仕留めるための圧倒的な能力を持っているのも、かっこいいなと思う。でも、非力な捕食者というのは、自然界ではご飯にありつけず、そのうち死んじゃうんだけどね。

世知辛い世の中だな。

 

3.ワイってマイノリティなん?

このように、愚痴めいた思いは止めどなく溢れてくるわけだが、そればっかり言っていても仕方がないので、自分なりに楽しく生きていく方法を模索していくわけなんだけどね。模索していく中で、更にモヤることに遭遇する。

齢30にもなると、いろいろと、考えておかなくてはならならないこと、大人として意見を持っておきたいことというのが様々な場面である。なのだけど、その意見と言うものが、なぜだか、マイノリティー側に属することが多い。何でかはよくわからないけれど、そこにも個人的な苦しみ・・・というよりも、恐怖に近い感覚をおぼえるのだ。

なんというか、腹を割って話せる友達との間では、それぞれの意見が

  • 一致はせずとも方向性が近い、あるいは
  • 方向性が離れていても「なるほど、そう考えるんだなあ(私にはイマイチわからないけど)」という理解に至る

というのがほとんどなのだけど、殊に、世間一般(?)の感覚と比べると、あまりにも著しい乖離があり、この世のことが全くわからない、と感じることが多い。

一体それの、どのあたりが「恐怖」なのか?と言えば、私には見えていない・認識できていない人間が「今の世の中」を構築しているということであり、相手からも私たちのことは見えていない(あるいは、見えている上で無視されている)という点である。

もしそうならば、この世の中における「私という存在の価値」は一体どこにあるんだろう?ということを考えるのである。

世の中の大多数の価値観や常識を、自分の中にインストールして、それが当然と思える価値観で、何にも疑問に思わずに生きていられたならば、どれだけ楽だったのだろうか、と。私は時折とてもやるせない気持ちになる。

実際には「その常識を疑問に思う力があるからこそ、いろいろなことに気付けるのでは?」と、言ってもらえたことも、自分で思うことも、たまにあるのだけど。だからこそ、取り立てて優秀でもない私が、細々と研究者をやれているのだと思うけれど。

だけれども、こんなにも、ややこしく、悩み、苦しんでしまうくらいならば、そんな力は実装されなければよかったのに、と思うこともしばしばある。難しいなあ。

 

もうダメだ!この世の終わりだ〜!と思った時に、試して効果があったもの紹介

以上が、ザワの最近のモヤモヤです。あらびっくり、もう8000字を超えますね。よくぞここまで読んでくださいました。ここまで読んでくださった皆様におかれましては、ぜひ私と友達になって欲しいです(懇願)。

今回の暗い話は一通りし終えましたが、それでも私たちは、平静を装い、日々をだましだまし生き抜いていかねばなりません。もちろん、必要な時は絶対に休んだ方がいいと思います、それは確実です。なぜなら、これらのモヤモヤは、たとえ休みなしで走り続けたとしても、いつか誰かの手によって一瞬で解決される、なんてことが全く期待できないからです。

だったら、たとえ小手先の手段だったとしても、少しでも精神衛生を改善させておくのが良いですよね。自分の機嫌は、自分で取るしかねえので。

そんなわけで、私の中で「精神衛生が(少し)向上した方法4選」を紹介して、この記事を終わりにしようと思います。

 

1.爪を磨いてもらったよ

前記事で書いたように、最近の私は爪を可愛くすることによって解呪しながらテンションをブチ上げているのですが、どういうわけか、ここ最近で、一気にボロボロになってしまったんです。メンタルも爪もボロボロで最悪な気持ちになったので、せめて爪だけはまともにしよう、ということでネイルサロンを予約しました。

その時はしゃべる元気もあんまりないし、コロナへのアレコレも考えて、施術前アンケートで「施術中は静かに過ごしたい」に力強くマルを描き、最低限の会話で1時間過ごしました。

みなさん、爪ってみがいてもらったことありますか?私は人生で初めてだったのですが、自分の身体の一部を誰かに手入れして貰えるの、自尊心のようなものが向上して、気持ちがかなり楽になりました。ていうかめっちゃテンションがあがります。ぜひみんなにもやってみてほしい。ありがとうH○T PEPPER Beauty。ありがとうネイルサロンのお姉さま。

 

2.家でできる運動を再開したよ

お気に入りのホットヨガスタジオにも行きにくくなってしまったし、心なしか体系に変化も現れてほんとに最悪な気分になったので、せめて家でできる運動をやるか・・・ということで、しばらく放置してしまっていたフィットボクシングを再開しました。

私の大好きな参考記事:

www.e-aidem.com

集中して挑まないと全然パンチ打てないし判定も落ちるので、これをやると強制的に思考回路を変えてもらえるので非常に楽ですし、良いです。しかも、インストラクターさんがめっちゃほめてくれる。「ナイスパンチ!」「そうです!」「悪くないですよ!」って。私は単純なのでそれが嬉しくなっちゃう。とても良い。

しかしながら、私はこれを続けていても何故か全然痩せないんですが(むしろ筋肉がついて太くなった?)、いずれにせよ、運動する時間は、肉体の健康維持のためにも大切だと私は思います。

 

3.「今日の良かったこと」を思い浮かべて寝ることにしたよ

これ、良いです。どんな些細なことでも「あのご飯美味しかったな〜」とか「今日も推しが可愛かったな〜」とか、何でもいいので、幸せに感じたことだけを考えるようにすると、なんとなく安心できます。

 

4.心の内を「音声入力でしたためる」と良いよ

これ、かなり良いです。3もいいんだけど、あまりにも疲れているとそんなことは思い浮かばなくなり、結局は脳内がモヤモヤで占められてしまいます。けど、思い浮かんでしまうモノはしょうがないし、止めることは出来ない。ならばそのモヤは、体内で腐敗する前に排泄した方がよいと私は思うのです。

音声入力というのがミソです。横になりながら、思ったことを口にすればよいだけです。ペンを握って書き出したりスマホの画面を見て入力したりすると脳が覚醒してきちゃうので(私の場合)、ぼそぼそと、うじうじとしゃべるのが良いと思います。誰に見せることもないので、思う存分泣き言を言えます。その言葉を否定する人も、無理矢理励ましてくる人もいないので、とても快適です。そして、吐き出しているうちに、だんだん眠くなってきます。眠くなってきたら、スマホを伏せて目をつむる。気付いたら朝になっています。

そのメモを見直す必要は特にないと思いますが、怖いもの見たさで見直してみたりすると、案外「あれ?どうでもいいな?」と思えることでクヨクヨしている場合があります。自分を客観視出来ておもしろいです。

それでも「どうしてもこれについては、誰かと話したい!伝えたい!」となった場合には、その排泄物を、人に見せられる形になるまで装飾した後に、どこかに投稿するのもアリかもしれません(私のように)。そういう記事は全くウケないけど、同じ悩みを抱えている人の心には刺さるし「私だけじゃなかったんだ!」って、誰かの孤独感を払拭するための材料になることがあると思います。

 

でも、本当にしんどかったら、しんどくなりすぎる前に、休んだ方が絶対に絶対に良い。動けなくなってしまう前に、心療内科メンタルクリニックに相談することを私はオススメします。心の健康は自分で守っていこうね。

悩みはつきないけど、この時代をどうにか生き抜いていきたいね。

*1:うちの場合、建物全体で教職員の出入りが禁止される可能性が高い。動物実験をしている教員が多く在籍していることを考えると、感染者が確認されてしまえば、全員が立ち入り禁止になり誰も動物たちのお世話できなくなる→実験そのものがポシャってしまう。ポシャるのも悲しいが、定期的なメンテナンスができなければ生き物も死んでしまう。これは重大な損失である。

*2:この状況を客観的に見つめると、後者の類いは、過去の栄光に縋った「変化を恐れる人々」に見えなくもない。なんとなく、日本の経済成長や科学技術にまともに投資をしないまま活路を見出したい人々に見えなくもない。知らんけど。

*3:「寄生」という生存戦略もあるが、ここでは割愛する