箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

祖父のこと。

3月22日。祖父が他界した。私がお見舞いに行って、札幌に帰ってきた翌日だった。私はまた、大切な人がこの世を去る瞬間に、側にいてあげることができなかった。

祖父は94歳だった。世間的に見れば大往生なのだろう。だけど私たちにとって、祖父の死は突然だった。祖父の身体は丈夫だった。体調を崩しているところや、弱っているところを見たことがなかった。亡くなる1週間前まで、自分の足で歩いていた。ほんの数年前まで、畑仕事をしていた。アイリスや、サクラソウを育てるのが好きだった。ジグソーパズルやスケルトンというパズルをするのが好きだった。学ぶことが好きだった。ほんのここ最近まで自炊もしていて、一緒に暮らしている伯父のご飯もこしらえていた。よく私に「食べていきな」と、いろんなものを出してくれた。

ちょうど1年前くらいから、がんが見つかったり、手術をしたり、転んだりなどが続いて、実際のところは、ヒヤヒヤさせられる場面は何度かあった。そしてつい数週間前に、悪性の強いがんが祖父の身体を急速に蝕んでいることがわかり、治療が「緩和ケア」に移行したことを知らされた。緩和ケアが何たるかを知っていた私は、それ以降、明確な言葉にはせずとも、心の中でそれなりの覚悟をしていた。

だけど「予期できる死」を前に、どうしたらよいのか、全くわからなかった。いわゆる「突然の死」にも、それなりの辛さがあるだろうが、死を予期できたところで、私には、何もできなかった。大人になって、生物の死というものが何たるかを理解できるようになったところで、近い未来に訪れるであろう喪失を覚悟をしたところで、私には、為す術がひとつもなかった。ただ祖父が、祖父に残された日々を、心を許せる家族と共に、どうか穏やかに過ごして欲しいなと、願うことしかできなかった。

後悔はしたくなかった。せめて自分にできることをやるのだと、私は仕事を切り上げて地元に戻り、できる限りの時間を、祖父と一緒に過ごすことにした。最寄りの駅で売っていた桜を一枝、花束にして持っていった。

 

***

「おじいちゃん!」と声をかけた。近頃は寝ていることが多くなっていたと聞いていた祖父の目が、その時はぱちくりと開いて、私と、桜の花を、交互に見つめてるようだった。予期せぬ孫の来襲に、驚いたのかもしれない。桜も、もうそんな季節なのかと感じられたのかも知れない、きっと最近は外に出られていなかっただろうから。入れ歯を外した祖父の顔は、いつもより凜々しさには欠けていたが、どうやら喜んでいるように見えた。

私が滞在している間には、緩和ケアの看護師さんが何度かいらっしゃり、髪を洗ってくれたり、ひげをそってくれたり、身体を綺麗にしてくれたりした。目を閉じて、夢と現実を行き来しているような祖父の様子から感情の機微をうかがうことは難しかったけど、なんとなくごきげんのように見えた。点滴をするために、細く硬くなってしまった血管に針を刺すときはかなり痛そうだったけど、打った後は、かなり身体が楽になったようだった。

それから私は、思い出話をしながらずっと祖父の手を握っていた。手は年相応にシワシワで、ちょっとだけひんやりしていたけど、そこには確かに、祖父の手があった。

日曜日の帰り際。「おじいちゃん、また木曜日に来るからね。それまで元気でね!」と、声をかけた。祖父はその時も少しだけ目を開いて、確かに頷いた。二人でハイタッチをした。

それが、私とおじいちゃんの最期の会話だった。

その翌日、祖父はこの世を去った。

 

***

次に私が会えた時にはもう、祖父は棺の中におさまっていた。祖父は、穏やかに眠っているようにも見えたが、私の知っている「おじいちゃん」は、もう「そこ」にはいないんだろうなと、なんとなく感じた。その、得も言われぬ喪失感に、どっと涙がこみあげてきたが「おじいちゃんは、天国にいるおばあちゃんに会いに行けるんだから、悲しくないよ」と、震える声で私を慰める伯父を前にして、どうにかこらえていた。

祖父の死の瞬間に立ち会ったのは、伯父だった。私は、伯父の顔を見ることができなかった。実の父の死に立ち会う瞬間、何を思ったのだろうか。祖父の最期は、どのようなものだったのだろうか。勇気が出なくて、自分から聞くことができなかった。棺の中に納まった祖父の、白髪交じりの繊細なまつげを、ただただ見つめていることしかできなかった。

 

翌日、棺を霊柩車に運ぶ前に、祖父に触れられる機会があった。たった数十時間前に「また来るから、元気でね!」と、挨拶を交わした時には、手を握っていた時には、確かに生きていた祖父は、祖父の細胞は、恒温動物にはあり得ない温度に冷えきってしまっていた。触れる度に、もう私が祖父のぬくもりを感じることはできないのだと、思い知らされた。それがなんだかとても寂しくて、しっかりと触れてあげることができなかった。私の目の前にある肉体は、確かに祖父のものだったのだが、それは紛れもない事実なのだが、これが私のおじいちゃんであるとは、心のどこかでは認められなかった。

 

人生で初めて、霊柩車に乗ることになった。枕飯と枕団子をのせた盆を持ち、後部座席の、祖父の棺の横に座った。座席はとても狭かった。でも、すぐ側にいるこの距離感の方が、なんだか安心できた。祖父はまだ死んでいなくて、私の横でただ眠っているだけなんだと、錯覚してしまうくらいに。

その日は、スモークがかかった車の窓から見ても明らかなくらい、空が青かった。雲ひとつなかった。こんな日に空を飛べたら、遠くまでよく見えるんだろうな、と思った。

葬儀場に行く間、私は運転手さんにバレないように、棺にもたれかかって過ごした。久しく誰かの肩を借りてないなあ、などと思いながら。誰かや何かに身を委ねるような感覚は久しぶりで、なんだかとても安心した。おじいちゃん、空がとってもきれいだよ、と、心の中で話しかけていた。

 

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葬儀をおこなった。祖父は大正に生まれ、第二次世界大戦に巻き込まれ、戦後の混乱を生き抜き、家族・兄弟を支え、高度経済成長期を歩み、家族を養い、昭和、平成、令和と4つの時代を生きた。その人生は、どのようなものだったのだろうか。本人に直接聞いたことはない。

平和ボケしている私には考えが及ばないくらい、大変だったこともあったのではないだろうか。我慢したこともあったんじゃないだろうか。でも、幸せを感じられることも、確かにあったんだよね?と、問いかけようにも、今後その問いの返事が聞けることはない。「そうに違いないさ」と、残された側が勝手に解釈することしかできない。もっと、いろいろな話を聞きたかったな。

私は18歳で地元を離れた。それ以降はなかなか頻繁には会いに行けなかったけど、私は、おじいちゃんのこと、大好きだった。気丈なところ。勉強家なところ。努力家なところ。意志が強いところ。筋を通すところ。生き物を大切にするところ。闇雲に口を出さないところ。でも重要なことはきちんと伝えてくれるところ。忍耐強いところ。優しいところ。いつだって応援してくれるところ。運転する時だけ口が悪くてちょっと怖かったけど、尊敬していたんだよなあ。ちゃんと、伝えられなかったなあ。いつか伝えたいとは思っていたけど、このあいだお見舞いに行った時にそれを言えなかったのは、それを口に出したら、一生のお別れになってしまうような気がして、嫌だったんだ。また絶対に生きて会いたかったから、「また来るね」って、言ってしまったんだ。

葬儀にあわせて急ぎで買った黒いハンカチは糊でパリパリで、ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を、びっくりするほど吸ってくれなかった。早起きして頑張った化粧も、ほとんどが流れて、ハンカチに移ってしまった。

 

火葬場に出発する前に、棺の中を、お花でいっぱいに満たした。せっかくなら、好きなアイリスも入れてあげたかったけど、時期が少し早すぎたかな。でも、お花が好きだった祖父だから、嬉しかったかもしれないけど、ちょっと恥ずかしかったかも知れないな。棺を満たす色とりどりの花は、蜷川実花の世界観を彷彿とさせるようで、生前の祖父のイメージとはかけ離れていて、ちょっとおもしろくもあった。花々の中から控え目に出ている祖父の顔が、なんとも愛おしかった。

お花以外にも、棺の中には、祖父の好きだったパズルの雑誌や筆記用具、好きだった煙草、好きだったコーヒー、おせんべい、甘いお菓子などが入れられているようだった。好きなモノを周りに理解してもらえていて、それを新しい旅路に一緒に持たせてくれる家族がいるって、とてもあたたかいなと思った。これで浄土での生活も、退屈しないといいね。

 

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葬儀でおくっていただいたお花たち

祖父は、好きなお花や、好きなものたちと一緒に火葬された。祖父のものだった肉体は、二酸化炭素や窒素として、大気へと還っていった。次に生まれる時は、植物なのかな。綺麗な花だったらいいね。景色の良いところで咲けたらいいね。おじいちゃんの魂は、次はどこに宿るんだろう。私が生きている間でも、来世だったとしても、またどこかで出会えるといいな。

 

納骨にも立ち会った。火葬された後に、あれほど骨がしっかり残っているのを、私は初めて見た。骨壺から溢れそうだった。それは、祖父の身体が本当に丈夫であったことと、その死があまりにも急であったことを、物語っているようでもあった。

 

***

祖父のお骨は今、伯父の家にいて、四十九日を待っている。祖父の魂が、無事に浄土に向かえていることを願う。骨壺の前に飾られている遺影は、私が成人式の時に、記念に一緒に撮ったものが採用された。祖父と一緒に並んで撮った写真。人生でとんとない晴れ着姿を見せにいこうと、朝早く母と一緒に祖父の家行って、祖父の家の庭で、母に撮って貰った写真。

「おじいちゃん、良い感じで撮れたよ!」というと「じゃあ遺影にでも使ってくれ」と、ニヤニヤしながら言っていたことが鮮明に思い出される。「縁起でもないこと言わないでよ!」と、その時は突然すぎるブラックジョークに私も母もびっくりしたけど、それが祖父の願いだったのなら、応えるしかない。写真の中では、朝日に照らされて、私も祖父も、若干眩しそうな顔をしている。祖父はもう、私のとなりにはいないけど、あの時は確かに横に並んで撮った写真。片方はまだ生きているけど、片方は故人になってしまった写真。報告に行けて嬉しかったはずの写真なのに、今はどんな気持ちで見れば良いのか、ちょっとわからなくなっている。大切な写真であることには、変わらないのだけど。まだまだ、大きな喪失感が尾を引いている。状況が揃っていても、心はなかなか整理できない。

 

今だって、祖父の家に行けば、祖父はいつもの定位置に座って「いらっしゃい」って、言ってくれる気がする。「これ食べていきな」と、お菓子や、作ったおかずを出してくれる気がする。「これも飲みな」って、祖父が好きな甘いコーヒーを、わけてくれそうな気がする。「ろくでもねえなあ」って、世間のニュースに呆れているような気がする。時代劇を見ながら、物語の解説をしてくれそうな気がする。「このパズルやっていいよ」って、一緒に解く未来が、まだありそうな気がしてしまう。でも祖父は、もう逝ってしまった。その現実はこの目で見て、触れて、それは自分でもよくわかっているはずなのに。私はもう、あの、ちょっとしわがれた、優しい声を、聞くことができないのか。私の名前を、呼んでくれることはないのか。祖父はよく私のことを母の名前で呼ぶことがあった。子供のころは「ひどい!」と思っていたけれど、今では、その声でもいいから、もう一度聞きたいな。

私はタバコの匂いがあまり得意ではなかったけど、今ではそれさえ懐かしい。祖父が好きだったハイライト。よく吸いかけのタバコを耳にかけていたなあ。小さい頃は一緒にたばこ屋さんに連れて行ってもらった。そのタバコが祖父の身体を蝕むことがあったのだとしても、タバコは祖父の一部だったし、私の思い出の一部でもある。

 

***

生きるとは、生き抜くとは、どういうことなのだろう。私が割と日常的に考える疑問だけど、確かに祖父は、祖父の人生を生き抜いたのだと思う。

祖父は年齢を理由に何かを諦めるようなことはしなかった。祖父は中卒で家族のために働きに出たらしいが、子を自立するまで育て、私のおじいちゃんになってからも「昔もっと勉強したかったんだ」と言いながら歴史の雑誌を買って読んでいた。「学びたい」という意思に、年齢は関係無いのだと、教えてくれたのは祖父だった。「受験のため」でなく、「自分のため」に、「自分が学びたいから学ぶのだ」ということを体現している初めて出会った人間が、祖父だった。この価値観は、その後の私の人生観にも大きく影響を与えている。

70歳過ぎてゲームにはまり、RPGの魅力を兄に教えたのも祖父だったらしい。当時の祖父は兄とゲーム三昧で全然私に構ってくれなかったから、私はとても拗ねていたけれど、私はその兄と家でゲームでずっと遊んでいた。そのおかげでゲームが好きになって、今も趣味のひとつになっていて、私の生活を支えてくれている。カメラにはまり、よく色々な写真を撮っていた時期もあった。私がカメラや機械に興味を持ったきっかけでもあった気がしているよ(あまりにも興味を持ちすぎて、祖父から奪い取ってしまった記憶がある)。

何かを始めるのに遅すぎることはないと、祖父は教えてくれている気がする。

 

1年前の祖父の誕生日。私はもうすぐ30歳になっちゃうよ〜と報告した時に「30歳ならまだ何だってできるよ」と、たばこの煙をくゆらせながら励ましてくれたおじいちゃん。当時は「さすが、3倍近く生きている人の言葉の重みは違うなあ!」と思っていたけど、その重みは、生きた年数から来るものではなく、祖父の生き様が生み出していたものだったのかもしれないと、今更ながら思う。格好良いなあ。私も、そういう人間になりたいし、そういう人生にしたいなあって思うよ。気付くのがだいぶ遅くなっちゃったけど、今ちゃんとわかったよ。大切なことを、たくさん教えてくれて本当にありがとう。

 

私は今年で31歳になる。もう、おじいちゃんに直接報告することはできないけれど、今年も、来年も、その先もきっと同じように、私の人生を応援してくれるのでしょう?

大好きだったよ、おじいちゃん。おじいちゃんの孫でよかったよ。母の娘でよかったよ。いろいろ落ち込んでしまうこともたくさんあるけど、生まれてこられて私は幸せだなって思うよ。これから私は、おじいちゃん以上にたくさんいろんなことに興味を持って、挑戦して、たぶん、めちゃくちゃ失敗とかもするんだろうけど、数十年後くらいに、お土産話がたくさんできるように、精一杯生きていきたいなって思うよ。

 

今年からね、新しく学生が3人もきたんだ。みんなそれぞれがやりたいことがあるみたいで、私なんかが先生としてやっていくのはとても不安があるけれど、みんなが「学びたい」って思ってうちに来てくれた意思を尊重できるように、それをサポートできるように、一生懸命がんばろうって思っているよ。

だから、見守っててね、おじいちゃん。

 

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