箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

「前向きな撤退」のススメ

ここ数年で、社会及び人間の闇の側面を見てはショックを受けるということを繰り返していたけれど、某曰く「傷付くことにも、疲れることにも、人は慣れていってしまう」ものらしい。そりゃあいちいち丸腰で正面から受け止めながら過ごしてしまったら、いくつ心があっても足らないし、涙も枯れ果ててしまうよね。

麻痺してしまうことはある意味では楽だけど、その都度その都度、精神がすり減って、摩耗していく事実に変わりは無いらしい。となると、ある「閾値」を超えたときに「何か」が起きてしまうという可能性が、誰にでも存在する、といえる。

 

***

私は「前向きな撤退」という言葉が気に入っている。とある知人が言っていた言葉だ。ひょっとしたら誰かからの受け売りなのかも知れないけど。

例えば「今置かれている環境から離れる」ということだけに着目すると、短期的に見たら「逃げている」と見えるかもしれないが、人生全体を通して、長期的に見たら「より生きやすいところを探す・模索する」という意味で、とても前向きな選択である。これは生態学で言えばジェネラリスト的な生き方であると言えたりするのだけど、そういう選択ができる生物ほど、生き残りやすいというのは学問的見地からしても理にかなっているのかもしれない。逆に「その環境でしか生きられない」という人ほど、環境変化に脆弱で、生き残りにくいのである。

 

しかしどうやら、この「前向きな撤退」という言葉(あるいは考え方)を、知らない人があまりにも多いような気がしてならない(若者ならともかく、大人にもかなり多い)。目先の利益・不利益、そして他人の目を気にするあまり、行動に踏み切れない、どうしたらいいのかわからず、身動きが出来なくなっている人を、しばしば見かける。

 

もし私に相談してくれたなら「こんな考え方もあるんだよ」って、言いたい気もするけれど、私に相談を持ちかける人は多くはない。心理的安全性を確保できていないからだろうか。そんなに私って怖い印象を与えているのかな。人を責めるような物言いをしているのかな。

とはいえこれも「誰かの力になりたい」という、単なる私のエゴだし、相談されてもその人の人生の責任を負えるわけでもないから、結局は当事者の判断に委ねられるわけなのだけど。

 

人生ってままならないね〜。という独り言。