箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

ここ最近考えていることの雑記(対等と尊重と多様性について)

ここ最近、複数の人と対話・議論する機会があって改めて思ったのだが、多くのトラブルというものは「人間関係」の「中」から生まれているような気がしてならない。

もしそうだとするならば、人間関係を「うまく」やることができたら、私たち人間は、よりストレスレベルが小さい状態で生きることができて、日頃イライラすることやクヨクヨすることに使っていたエネルギーを、より生産的な方法に使える様になる可能性があるのではないだろうか。

本稿は「良い関係性」を構築するために必要な「要素」について考えた雑記である。特にこれといった結論があるわけでもないので悪しからず。

エコシステムから考える「関係性」

エコシステムとは「生態系」を意味する英語である。イギリス人植物学者タンズリー博士が1935年に定義して、使い始めた言葉であるとされている。そこに生きている生き物ももちろん大切だけど、それら生物たちを取り巻く非生物的要素(物質:栄養素や、エネルギー)との関係性を考えることが、生態系の本質を理解する上で重要、という文脈であったと思う。

エコノミーから考える「生態系」

エコノミーは「Oikos(家)ギリシャ語」の収支を考える学問、が語源となっている。ここでの収支とは「お金」であるが、生態学的視点でみれば、ここを「エネルギー」と置き換えて読むことができるだろう。

需要と供給曲線で生態系を俯瞰してみると、消費エネルギーに則って考えた時には、集団や群れの大きさというのはある一点(付近)に収束するようになっている。個体群が大きくなればなるほど、エサを見つけること、敵を見つけて逃げることなどが容易になり、1個体あたりの捕食圧が減少するというメリットがある。その一方で、群れが大きいと「各個体間での喧嘩の発生・ナワバリ争い」や「外敵に見つかったときに逃げ遅れる個体が出る」、更には「病気の蔓延に脆弱」などのデメリットも生じうる。

このような観点から、集団を形成する時には「ある一定数」の個体が集まったときには、非常にバランスの良いチームができるが、一方でそのメンバーが少なすぎても、多すぎても、チームとして上手く機能することができないことがわかる。また、当然、一人で生きるには大きなコストとリスクがかかるし、かといって、「大勢の中の一人」でいることの方がいつだって安全、鶏口牛後であるべきともなかなか思えない。

 

人間社会に関する論考

個人的には、フリードリヒ・ハイエク的な考え方に賛同している節があり、中央の権力者や計画者が「高度に発達・多様化した社会を秩序的に維持しようとすること」は、本質的に困難なのだろうとも考えている。仮に誰が首長になったとして、その首長が「集団に属している全ての人間、各々が持っている機能や役割を100%正しく認識すること」は到底できようもないし、その多様性を把握しきることもできない。更に言えば、多様性を維持することの大切ささえ、理解していないこともあるだろう。

しかし、そうであったとしても、私は、人間各々が「幸福を感じながら生きる」という人生を諦めたくないし、どうにかその方法はないものかと模索し続けているというのが現状だ。

 

良好な人間関係を築くための二原則(※個人の考え)

私が思う、良好な人間関係を築くために必要な二原則(キーワード)は

対等であること」そして「尊重すること」である。

これらのいずれか(または両方)が反故にされているような状況の場合、それは決して「良い関係性であるとは言えない」と、私は考える。

対等とは

双方相等しいこと。互いに優劣、上下などの差がないこと。また、そのさま。同等。対々。(精選版 日本語国語大辞典より)

尊重とは

とうとび、重んじること。価値のあるものとして大切に扱うこと。(精選版 日本語国語大辞典より)

まずひとつめは(どこかの本で読んだのだが*1)、人間関係は常に対等、あるいは、水平線上に広がっているものであり、上下に存在するものではない、という考え方だ*2

自分と他者を、上か下かで見るとこは、基本的にはナンセンスである。なぜならば、私たちは特定の人物の「何か」を評価・比較しようとしたとき、それは必ず「評価軸によって」優劣の関係性が変化するからだ。たとえ、一見揺るぎなさそうな上下関係、例えばカースト制度や部落制度、差別などがあったとしても、それは「人間社会」が、何らかの目的を達成するために人工的に作り出したものであり、ヒトという生物群が自発的に作ったり、自然発生的に生まれたりしたものではない*3。そもそも、その「評価軸」とて普遍的なものは存在せず、時代と共に変わりゆくものだろう。

個人的には、集団の中で自分の優位性を示そうとする行動自体が私には理解できないが、そのようなことをする人の価値観を推測するに、おそらく何かへの自信の無さの現れなどがあるのだろう。自分が作り出した評価軸の中で自分が優位に立てることに勝手に喜びや快感を得るのだろうが、そのようにして得た満足感の先には何も残らない。比較された側はたまったものではない。

そして二つ目は(ひとつめの延長にある気もしないではないが)、相手のことを「尊重」することだ。心から重んじて、価値ある大切なものであると認識していたとするなら、優劣で判断することもなければ、上下関係におこうともせず、ひとりの人間として対等に扱えるはずなのだ。

では、尊重するとはどういうことか?以下のような項目が挙げられる:

  1. 相手の話をしっかり聴く・傾聴すること
  2. 相手の価値観や違いを認める
  3. 相手の自由や選択を尊重する(意見の押しつけ・相手をコントロールしようとしない)こと

相手の話を聞いて、しっかりと受け止める(それが理解し難いものであったとしても、受け入れる姿勢を示すこと)は極めて重要である。それを受容することこそが、価値観や考え方を認めることでもあるし、相手のことを大切にできる手段でもある。しかし、受容することは、全てを受け入れて「賛同すること」ではないことも覚えておきたい。自分の意見と、他者の意見が、同じ世界の中で共存している状態を認めることが肝要なのである。また、相手と自分の間には、断ち切ることのできない「境界」があることを忘れてはならないのだ。みだりに踏み込むことも、踏み込ませることもしてはいけない。

一方で、多くの人(集団)は、自分と異なる意見を持つ人々のことを恐れ、排斥しようとする傾向がある*4

しかしここで私が訴えたいのは、異なる意見を持つ者同士が共存している状態こそ、多様性があるといえると思うし、同じ物事を見つめたときに様々な視点から評価することができる状態を維持することこそが、人間社会が目指そうとしているとされる高度な社会であるはずだということだ。

 

こんなことを言うと「お前ハイエクに賛同しているくせに何を言ってんの」「矛盾しているじゃん」と言われてしまうかもしれないけど、それでも私自身は「お互いを尊重しあって、幸福を感じながら暮らせる社会」に身を置けることを、強く望まずにはいられない。もちろん社会や世界が、私が望むとおりに全て変化していくわけではないけれど*5、少なくとも、自分の周りでは、居心地の良い環境を作りたい。し、そのための努力を惜しみたくない。そして、その努力をしようとしている人を、私は心から応援したい。そう思うのでした。

 

うまくまとめられないけど、今日はこの辺で。

*1:多分、アドラー心理学の本だったと思う。「嫌われる勇気」だったかな?

*2:「フェア」であることとも少し違くて、フェアは「与えられた環境条件・ルール等」を指すことが多いらしい。対等はより、実質的な1:1の関係性を示すものだと思われる。

*3:ただし、同じ霊長類でも、群れの秩序を守るために、便宜的にボスとなっているシルバーバックなどは別かもしれない

*4:不確定要素そのものが集団生活を送る上で、トラブルの引き金になりうるのも理解できるけどね。人狼ゲームみたいに

*5:大統領線とかね…色々思うところはありますよ