箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

鬼滅の刃を読んで感じた人生のリアリティ

この間「鬼滅の刃にハマったよ」という記事を書きました。すると「実は私も好きなんです!」と伝えてくれる人や、ひっそりいいねしてくれる人がいて、大変嬉しかったです。そしてアニメ第2期の放送が決定しましたね!漫画やアニメのことでこんなに興奮したのはひさしぶりでした。生きる楽しみが増えるのは良いことです。

 

tkzwy.hateblo.jp

 

なぜこんなに魅力を感じるのか?

さて、アニメ1期を見て、映画無限列車編を見て、原作を完結まで読んで約3ヶ月が経ちました。周囲が引く程度にはディープなところまで急激にハマってしまったわけですが、こんなにもひとつの作品にのめり込んだのは高校生の時以来です。

一体何故こんなにハマってしまったのか、どのような要素が私にハマったのか、ちょっと考えてみました。これ以降はネタバレが含まれますので読まれる方はご注意ください。

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冨岡義勇さんの誕生日(2月8日)に作った義勇さんの好物「鮭大根」。


鬼滅の刃を読んで感じた「人生のリアリティ」

私は30歳なので30年生きてきた上での感想しか話せませんが、結論から言うと「リアリティがすごいから」だと思うのです。

 

人間の弱さに漬け込む「鬼」という存在のリアルさ

鬼滅の刃はいわゆる「鬼退治」の漫画です。鬼滅の刃の世界において「鬼」は「人の命を脅かす、倒すべき対象」ではあるものの、ストーリーが勧善懲悪に偏りすぎていない、というのが魅力のひとつであると前回お話した気がします。もちろん外道のような鬼もいることにはいますが、鬼滅の刃の世界に存在する「鬼」はみな元々は人間で、鬼になる前には人間だった時代が確かに存在します。

で、完結まで見た上で今思うのは、鬼滅の刃という作品における「鬼」は、「人間のダークサイドを象徴している存在」なのではないかということです。というのも、一部を除いた多くの鬼たちは、人間時代に「どうしても満たされなかった願い・欲望・渇き」という心の穴を持っていました。

もっと丈夫な身体があったら。もっと私が強ければ。もっと私に才能があれば。もっと時間があったら。もう少し生き存えることができたなら。私はあんなことができたかもしれないのに。あなたに勝てたかも知れないのに。何者かになれたかもしれないのに。誰かに認めてもらえたかもしれないのに。幸せを掴めたかも知れないのに。———

鬼にされてしまった人々は、このような「穴」につけこんだ「鬼の始祖」から、血を与えられることによって鬼化し、永遠の命と強さを(あるひとは切望し、あるひとは強制的に)授けられたという経緯を持ちます。そして、鬼の始祖もまた、人間だった時代には、丈夫な肉体と命を渇望していた描写がありました。

「人間」が「鬼」になるきっかけは、人間なら誰しも抱くことがある「衝動」や「願い」が根底にある。これを考えると、誰しもが、一歩何かを踏み違えれば、歯車がずれていたら、ボタンをかけ違えてしまえば、違う選択をしていれば、「鬼」という怪物になってしまうかもしれない。ともすれば「自分を守るためならば、罪の無い他人を巻き込んでしまっても構わない」という暴力性を抱きながら生きていかねばならない、という将来を選んでしまう可能性がある・・・ということを、まざまざと見せつけられているような感じがしました。

作中では、それぞれの登場人物がそれぞれの「危うさ」を抱えていて、しばしば「人間としての使命や矜恃を持って死ぬ」か「鬼に墜ち永遠を生きるか」という選択肢が、自分たちの前にあるのだ、ということが明確に示されていました。わかりやすいところでいえば、禰豆子ちゃんの「鬼としての欲望・本能」と「人間としての自我」との対比だったり、とある鬼と対峙した時に炭治郎くんが「兄妹の兄」という互いの共通点から、自分を鬼に投影している瞬間がありました。

そんな危うい状態の中でも、特に「人間」である主要人物たちは、それぞれがそれぞれの「強い思いや信念」を心に持ち続けることで「人間として生きる」ことを毎度選び取っていくわけなんですが、一方では「いつもどんな時も間違いのない道を進みたいと思っていますが、先のことはわかりません」と不安を吐露したりもしています。私はそこにリアルを感じました。なぜなら、その「危うさ」や「弱さ」みたいなものって、マンガの世界だけじゃなくて現実世界でも誰もがごく普通に持ち得るものだからです。例えば、自分が、何らかの理由で絶望の淵にいたり、打ちのめされていたりする時に、優しく慰められたり、仲間になろうなどと声をかけられたりしたならば、揺らがない人間なんていないんじゃないか、と思うわけです。そこで「自分を踏みとどまらせる何か」を持っているかどうかが、その場での選択、そして、その先の生き方につながっていくのだろうなと感じます。

作品を通して、心が苦しくなるような、悲しい話やむごい描写がそれなりにあるのにも関わらず、ページをめくる手が止められなかったのは、炭治郎くんたちが人間としての道を踏み外さないように、見守りたいとか、応援したいとか、その行く末を見届けたいという気持ちがあったように思います。 

「自分」と「他者」の関係性のリアルさ

私は作品へ感情移入しやすいタイプなので、この点が読んでいて一番苦しかったし、考えさせられてしまいました。私は、この作品のキーワードに「家族(兄弟姉妹)」とか「仲間」とかがあると思うのですが、主人公たちが属する「鬼殺隊」には、様々な境遇に置かれた人たちが在籍していて、その多くは「家族(や、それに近い大切な人)が鬼に殺された」など、鬼に因縁がある人が多いようでした(全然関係ない人もいるけど)。なのですが、登場人物によって、自分と「鬼」、そして、自分と「家族や仲間」への向き合い方が、全く違うんですよね。その違いがまたとてもリアルで、心が抉られてしまいました。すこし挙げてみるだけでも

  • 先祖代々鬼狩りの家系で「強く生まれた者としての使命感」で戦う
  • 家族の「敵討ち・仇討ち」のために戦う
  • 他の家族や仲間を「守る・助ける」ために自分が戦う
  • その中でも「自分だけ生き残ってしまった罪悪感(サバイバーズ・ギルト)」を背負いながら戦う

があって(もっと色々あるけど、ここでは割愛します)。具体的に誰がどれに当たるのかは言及しませんが、自分にしかない力をもって、自分の命に代えてでも人を救うということも、大切な人が殺され「仇を討つこと」だけを考えて生きざるを得ないという状況におかれてしまうことも、「大切な人」を守るために自分だけが戦いに赴く覚悟をもつことも、その一方で、大切な人を目の前で失ってしまい「自分だけが助かってしまった」ことに葛藤しながら生きていくことも。どの道を選んだところで、そこには「苦しみ」や「生きづらさ」が伴うと思うのです。そしてその苦しみを、どのように背負って、どのように生きるべきなのか?ということに対して、絶対的な正解がないからこそ、それぞれが人生のテーマを自分で決めて、歩んでいかなければならない。

作中では、それぞれがそれぞれの生い立ちを話したり、ましてやその「生き方」に口を出したりする描写はほとんどありませんでした。まあ、鬼殺隊に所属する登場人物たちには「人の命を脅かす鬼を滅殺する(その結果としての平和な世界を実現する?)」という共通の目的があったので、各々の背景なんて知ることがなくても、しっかり団結はできるわけです。なのですが、独白されるそれぞれのバックグラウンドを、全てを知ってしまった身(読者)からすると、その全てが、大変痛ましく、胸が締め付けられる思いになります。

特にそれを感じたのは、本編の柱稽古らへんで語られる冨岡さんの胸中、小説「片羽の蝶」で語られる悲鳴嶼さんの胸中、「風の道しるべ」の中で語られる胡蝶姉妹を前にした時の不死川さんの胸中です。

それから、本編無限城編で出てくる「3組の兄弟」の対比も、胸を打つものがありました。「兄」と「弟」というそれぞれの立場で、守りたいと思うもの、叶えたい願いがあった。けど、守りたいものも、願っている内容も、それを達成する手段も、六者六様でした。

家族ってなんだろう。仲間ってなんだろう。「誰かを守る」って、どういうことなんだろう。どうすれば「大切に」できるんだろう。それはどこまでが「エゴ」で、どこからが「尊重する」ということなんだろう。そういうことを考えさせられるのです。

 

「痛みや苦しみ」は人それぞれあるけれど「幸福」を定義するのは自分

登場人物たちは、育ってきた家庭環境も様々でした。竈門一家のように仲が良く健全な家庭もあれば、虐待を受け続けて感情表現がうまくできなくなってしまった人がいたり、家族に冷たくあたられても「寂しい」とさえ伝えられない人がいたり、貧困にくるしみ犯罪に手を染めてしまう人がいたり、兄弟間で目に見える格差をつけられ邪魔者扱いされて生きてきた人がいたり、過度なプレッシャーに押しつぶされてしまう人がいたり、嫉妬心に胸をやかれてしまう人がいたり。理不尽に大切な人が奪われてしまった人がいたり、自分の出生した家系に負い目を感じて生きている人がいたり、自分の容姿や体質のせいで辛い思いをしている人がいたり。

程度こそ違えど、もはやこのような類いの苦しみって、鬼という存在関係なしに、現実社会にめちゃめちゃある話じゃないかということを感じるのです。だからこそ読者は、この作品を読む中で、登場人物の誰かしらの何かしらの「苦しみ」に自分との共通点を見出し、感情を揺さぶられ心が動かされるのではないかと思うのです。

しかし、この物語の救いがあるところは、端(読者)からみたら、どれほど辛く、苦しいように見える状況であったとしても、何を「不幸」と思い、何を「幸せ」と思うかは人それぞれであり、それは他でもない「自分」が決めることなんだ、というメッセージを投げかけてくれるところにあると思います。

登場人物たちが、それぞれの運命と向き合い、選択し、行動していく中で「幸せかどうかは自分で決める」と言っていたり、「(何のために生まれてきたのか?という問に対して)幸せになるために生まれてきたんだ」と答えを見つけた人がいたり、「自分を不幸だと思ったことはない」と独白するシーンがあったりします。

今の社会を生きていると「世間一般的な幸福」の「理想像」を、他者から押しつけられることもあって、それが人々を生きづらくさせているのではないかと思うこともしばしばなのですが、作中の彼らの生き様を見ていると、自分の幸福の尺度は、自分の幸福の有り様は、自分で決めてよいのだと、言ってもらえているような気がして、強く背中を押された気持ちになれるのです。

 

以上が、この作品から私が感じ取ったことで、私がこの作品を魅力的に思う理由です。

世間で流行していた最盛期(?)からは大分乗り遅れてしまったけど、私はこの作品に出会えて本当によかったなと思っています。吾峠先生には感謝してもし尽くせません。

アニメ2期がいつから始まるのかはまだわかりませんが、引き続き応援させていただきたいなと思います!以上です!!!