箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

日本の博士学生は本当に不幸なのか?〜お金について考える〜

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どうも〜〜ざわこです。

科研費申請を乗り越えた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

 

先日出張で国外のとある大学に行ってきたのですが、博士課程学生が置かれている状況について、いろいろと考えることがあったので、ここに記しておきたいと思います。

 

 

自ら出資し学ぶ日本 vs 給与を得ながら研究できる他国

アカデミック界隈では既に有名な話だと思うのですが、大学の博士課程に進学し、学位取得を目指すという共通の目的(達成目標)のもとにおいても、学生が置かれている状況は、日本国と他国では大きく違うという話がある。

他国では、学生が博士課程に進学する際、研究室のボス(もしくは大学)が、学生を雇用・あるいは採用し、その働きに対する対価として給与を与えるケースが多いらしいというのだ。つまり博士課程の間、やるべき仕事をきちんとこなしてさえいれば、生活に困窮することは無い、といわれている。

一方で、日本ではそのようなシステムはほぼ存在せず、博士課程に進学して研究をしていくためには、入学金・学費・生活費を、学生自身が自力で獲得、あるいは捻出*1していく必要があるのだ。

これらの「日本と世界各国との待遇の差」に関しては、悲観的な意見を持つ人が少なくない。

例えば、こんな記事がある。

大学院(博士課程)の悲惨な待遇は生活保護や刑務所の懲役刑未満という話 – はじめのすすめ

タイトルこそ過激だけども、置かれている境遇としては、的を射ているようにも感じられる。

言われてみれば確かに、お金も貰えないのに、なんで進学なんてするの!と、他国の友人に言われたんだよね〜という話も聞いたことがある。どうやってそれでやっていける(生きている)の?と、不思議がられることも、割と頻繁にある。

このように、日本の学生が置かれている「不遇」に見える状況は、他国の博士課程の学生にはなかなか理解してもらえない。確かに「ボスや大学に雇われ、給与を貰いながら、生活が保障された環境で研究ができる」のが当たり前のものなら、それらが満たされない環境(例えば日本)で研究するという状況は、なかなか信じられないだろう。

そんな他国における学生を取り巻く、一見「恵まれた研究環境」を知る人々の

こんな苦行を若者に強いる日本は終わっている。不遇で、恵まれていない。不幸だ。日本も他国に見習いそういう制度を導入すべき(あるいは、日本で学位を取るべきではない)。

という主張は、よく耳にする。実際に私も「取れるものなら海外の大学で学位を取った方が良いことが多そうだよな〜〜〜給料高いし」と、思っていた。

 

「雇用される意味」を再考する

しかし、最近になって、研究室のボスからプロジェクト予算等で雇われ、実際に「生活を保障してもらいながら研究をしている学生たち」から聞いた意見は、私(我々?)が抱いていたその認識とは、少し、いや、かなり異なっていた。

その時に聞いた内容と、それ経て私が思った雑感をまとめてみる。

生活が保障されている安心感がある

他国の博士学生は、一般企業で働くのと同じように「社会人」として扱われている*2。それでけでなく、労働に対してきちんと対価(しかもそれなりに高い)が得られるため、帰属意識や責任感も生まれる。これは学生にとっては非常にポジティブである。

またこれは私の主観であるが、社会的立場も給与も保証されているためなのか、学生のうちに家庭を持つ比率が、日本よりも多いように感じる。

在籍年数の長期化

既に「給与もあり、社会的に認められている」からこそ「早く卒業しよう」というモチベーションにはつながりにくく、在籍年数が長期化するケースもあるらしいと聞いた。

長期に渡って在学することは、単純に考えれば、年数が増えれば増えるほど、学ぶ時間も増えるはずであり、その期間は、給与を得ながら、幅広い分野について学んだり、知識を吸収したり、経験したりする機会に恵まれやすいと考えられる。

その一方で、卒業時年齢の高年齢化は避けられないし、研究室の流動性が低下することも考えられる。卒業時年齢の高年齢化や流動性の低下が、直接何かに影響するかどうかは、今のところ私にはよくわからない。何か意見のある人はぜひ教えて欲しいです。

業務内容・量によっては自身の研究に集中できない

もし学生が望む「自分のやりたい研究テーマ」と「依頼された業務内容」との間にギャップがあった場合、本来は自分の研究テーマのために使いたかった学生の「労力や時間」は、業務遂行のために割かなくてはならなくなる。そうすると「自分がやりたかった研究」に集中できる時間は減り、進み具合も遅くなってしまう。これは学生にとってはとてもネガティブなことで、在籍年数の長期化とも密接に関係している。

「自由な発想」をする機会の損失

一方、研究テーマと業務内容が一致している場合にも、それはそれで別の問題があるらしい。例えば、プロジェクト型の研究は、既に研究の「ストーリー(研究背景、目的、手段、そして、多くの場合は結果も含めて?)」が決められていることが多く、もし博士研究の大半をプロジェクト型の研究に費やすことになった場合、在学期間中に、型にとらわれないような自由な発想・議論をする機会に恵まれにくい、という弊害もあるのだという。

聞いた話によれば、他国の学生から「プロジェクトがあれば雇って欲しい」という趣旨の問い合わせが来ても「あなたは何に興味があって、何が疑問で、何を解きたいを思っているの?」と尋ねると、閉口してしまう人が多いのだという。本来であれば、学生の間にその「問い」を自分の中で見出すことが、今後の研究者人生のために重要なのではないかと思われるが、ひょっとしたら「雇われた業務内容の研究を博士課程のテーマにすること」がそれをもたらしてしまっている可能性も、あるのかも知れない。

 

***

今までは「ボスに雇用され、お金を貰いながら研究をすること」は、一見するととても恵まれていて「学生にとって、とても良いこと」だと私は信じていたし、今も多くの日本人が「日本の学生は不幸である」と思っているだろう。

けど、以上のような現状を踏まえて考えると「どっちが幸せか・不幸か」を簡単に結論づけることはできないな、感じている。

 

学生に一番やさしい・ありがたい制度とは?

日本人のみならず、多くの人たちの中で画期的と思われていた「ボスに雇用され、お金を貰いながら研究をすること」は、どうやら必ずしも良いことばかりではないらしい。それどころか「自分がやりたい研究やテーマ」が明確にある学生にとっては、むしろネガティブな側面が大きいのでは、とさえ思える*3

というよりもむしろ「雇用」とはそもそも、労働に従事させるため、賃金をはらって人を雇うことを意味していて、給与をもらう以上、果たさなければいけない責任や、払わなければいけない対価(時間や労力)がある、ということを理解しておかなくてはならないのだ。

では、学生は、博士課程に期間中に、どのように生計を立てていくのが好ましいのだろうか。

日本における「学振特別研究員」という制度の存在意義

学振(日本学術振興会)特別研究員という制度は、日本の大学に進学して研究職を目指す人なら、多くの人が聞いたことがあるだろう。

特別研究員制度は、我が国の優れた若手研究者に対して、自由な発想のもとに主体的に研究課題等を選びながら研究に専念する機会を与え、研究者の養成・確保を図る制度です。(HPより引用)

博士課程で学振特別研究員に採用されると「研究奨励金」として、月に約20万円、給与のような形で支給される。

学振の制度をめぐっては、今までに「雇用関係でないから、税金・保険料・年金などを20万円の中から払わねばならず、生活費などに使える金額はほんのわずかしかない。ボーナスも有休もない!」

などといった意見が散見されてきたが、私は、この「雇用が結ばれていない」というところに、学振という制度の真髄があると、今になって感じている。

「投資」という選択肢

先述したように「雇用」とは、労働に従事させるため、賃金をはらって人を雇うものであって、もし学生が、三者から給与として金銭を受領したら、その時点で、払わなければいけない対価(労働や成果)が発生することになる。

その中で、学振特別研究員という制度は、あくまで「自由な発想のもとに主体的に研究課題等を選びながら研究に専念する機会を与え、研究者の養成・確保を図る」ことを前提としている。

言い換えると、学術振興会は、学生に対して「給与」に相当する「研究成果」を要求するのではなく「先行投資」をし「将来の日本の学術界を担う人材を養成・確保している」というスタンスを取っているのだ。

これによって学生は、

雇用こそされないものの、明確かつ確実な対価(成果)を要求されることもなく、自らの関心の赴くままに自由にテーマを決め、自分の研究を進めることができるのだ。なぜなら、この制度には雇用関係がなく、あくまで「投資」だからである。

このような「投資」という形式を取るものには「学振」のみならず「民間企業の給付奨学金」なども含まれる。

以上を踏まえると、学生にとっては「投資」という制度を活用できることが、労働も要求されず、自由度が高く、自分の仕事に集中することが許される、最もありがたいものであるといえるだろう。

 

まとめ:投資してもらえるような働きをしたいよな(願望)

人は、生活をするために、お金を稼がなければならない。そして、たとえ学生といえども、生活費を得る手段を持たないことには、学業を続けることはできないというのが現状である。

日本の博士課程の学生が生活費を得る手段は、大きく分けて以下の4つが考えられる。学生がどの手段を用いるべきか、その最適解は当該学生をとりまく環境によって様々であるが、それぞれの手段に、それぞれ留意すべきポイントがあることを、気にとめておく必要があるだろう。

  1. 親からのサポート(仕送り)
  2. 国・民間からのサポート(学振や給付奨学金
  3. 国・民間からのサポート(貸与、すなわち借金)
  4. 労働(給与)

親からの仕送りは、学生にとって「自ら働く必要がない」という点では最も負担が少ない。仕送りは親から子に対する「投資」であるとも言えるが、その仕送りは、親が労働で得た「給与」を、子が「消費」しているにすぎないことを考えなくてはいけない。

国や民間から受けられるサポートのうち、学振や給付奨学金は、先述したように、その学生が、将来、国や学術界へ貢献してくれることに対する、国や民間企業からの「先行投資」である。明確な対価(労働や成果)は要求されず、自由度の高い研究が展開できる良さがあるが、学生には、社会が「投資先として選んでくれた」ことに対する責任感をもって、積極的に研究活動に取り組むことが求められるだろう。

一方、日本学生支援機構に代表されるような貸与奨学金は、将来「労働で獲得するであろう対価(給与)」を、学生自身が「前借り」しているという状況であることを、気にとめておかなくてはならないし、学生はそれを見越した上で将来設計をする必要がある。

そして給与(TA、RA、アルバイトを含む)「限られた在学年数のうちにおこなわなくてはならない労働」に対する対価であることを理解しておかなくてはならない。在学中に様々な経験を積める「学ぶ機会」が得られるという長所を活かしながら、限られた時間を有効に使えるように、在学期間中を戦略的に過ごす必要があるだろう。

 

また、日本のみならず、世界で見た時にも、この「労働」と「それに対して得られる給与」というギブアンドテイク的な関係性は、普遍的に存在すると考えられる。また、これは学生に限った話ではなく、研究者の労働・雇用環境についても、同じことが言えるだろう。

もちろん「学生が雇用されながら研究をすること」の全てが悪いなどとは到底思わないが、私の中での結論としては、特に博士課程の学生については、学振や給付奨学金、寄付金などのような「学生に投資をする・できるようなシステム」が、国や大学・団体・企業の中で普及することが、学生が主体的に学び、集中して自身の研究を進めていくためには重要だと思う。

 

一方で、進学を望む全ての学生に投資ができるほどの潤沢な資金を持っているところは、国であろうと企業であろうと、現状ではほとんどないだろう。

おそらく、進学を目指す学生・若手研究者としてできることは、今の環境で、できうる限りの経験や研鑽を重ねることと、研究業界にアンテナを張り巡らし、学術界に貢献・寄与できるような研究テーマを見出し「自分は投資されるに足る人材である」と知らしめ、今ある制度を効率よく活用できる道を模索していくことだろう。

また、既に研究者や大学教員として働いている人は、もし進学を想定している学生が現れたら、それぞれの生活資金源に対して、以上のような側面があることを伝えた上で、どれを選択するか決めて貰うのが望ましいだろう*4

また、将来的に日本や世界で「学生に投資できるシステム」が広まっていくように、そして、それがあたりまえの選択肢として居場所を作っていけるように、国や企業・社会に対して、学術界(特に将来の日本や世界を背負って立つ学生や若手)に投資することの重要性を、常に説明・発信していく責任があるのではないか。そして「投資する価値が学術界・科学界にありそうだ」と思って貰えるような研究活動を、自らが先陣を切って進めて行くことが重要だと、今のところ私は考えている。

 

この記事が、読んでくださっているみなさんにとって「学生がどのように博士課程を過ごすべきなのか?」ということを考える一助となれたら、幸いです。

長くなりましたが、以上です。

 

*1:日本の博士課程在籍中に得られる収入源と言えば、一般的には、学振日本学術振興会特別研究員DC1 or DC2)、奨学金日本学生支援機構、民間企業など)、TAティーチングアシスタント)、RAリサーチアシスタント)、アルバイト、などがあると思われる(参考記事:いつまでも続けばええやん: 博士課程の収入源について)。

*2:日本では、博士学生は学生生活の延長と捉えられるケースが多い

*3:なお、入学前にあらかじめ長い時間をかけてボスと相談を重ね、学生の関心に沿ったプロジェクト予算を獲得してくれるような場合に限っては、問題は少ないと思われる

*4:自分で考えて決められる学生ならば、その限りではない

新生ももクロの旅立ち(緑推し目線10周年ライブの感想)

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ざわこです。

めちゃめちゃ今更ではありますが、ももいろクローバーZの10周年ライブに参戦した時の話をしようと思います。かなり時季外れになってしまったので投稿しようかどうか悩んでいたのですが、途中まで書いてあったというのと、せっかくの記念すべき10周年ライブの話だしお蔵入りさせてしまうのも悲しかったという理由で、どうにかまとめておくか〜〜!!!と思った次第です。

まあ今更私が何かを言わなくても、彼女達はいつだって「世界のももクロNo.1」であり「最and高」なんですけどね!!!

1ヶ月後のクリスマスライブの前に、いかに彼女たちが最高なのかを、知っていただけたら嬉しいです。

 

 

The (Team) Diamond Four の覚悟

ももいろクローバーZといえば、みなさんご存知とは思いますが!いろいろな紆余曲折を経て、現在は4人で活動している国民的アイドルグループですね。

若くして芸能活動を始めた彼女達は、20代前半にして、アイドルとしては既に社会的な「成功」をその手におさめつつあり(紅白歌合戦に3回出場、開催する大箱ライブはいつもほぼ満員)、個々の知名度も上昇し始め、芸能という厳しい世界で活躍の場をどんどん広めていっています。その一方で、彼女達もまた、我々と例に違わず、適齢期を迎えようとしている「普通の女性」という側面も持っているわけです。

このような条件が揃うと、一般的な?女性アイドルグループでは「引退・卒業」や「グループの解散」「ソロ転向」「活動休止」などの発表がされても、おかしくない状況ではありますよね。

 

そんな雰囲気がある中で、私が思う、彼女達が他のアイドルグループと一線を画していた(と思われる)点は、

(結婚しても、子供ができても)一生ももクロというグループを続けていきたい

という意思を、2014年3月に国立競技場にてライブをおこなったときに、ファンの前で高らかに宣言したところ、

そしてそこから約4年が経って、2018年1月に有安杏果と道を分かつた直後においても

私たちには、続けていくその覚悟がある

と言ってのけたところ、にあると思います。

 

「最強の6人」から1人減り、5人という「奇跡の布陣」からさらに1人抜けてしまうという、グループとしての大きな大きな壁にぶち当たってもなお「続けていく」という誓いを聞かされた私たちは、古参も新規も同じように「彼女達はこの先どういうモチベーションを持って活動していくんだろうか?」ということに、注目していたのではないかと思います。

そして、ももクロちゃんたちと、ファンである我々が、一同に会するこの「10周年セレモニー」の場で、その決意表明することは、彼女達自身、そしてチームももクロにとって、重要かつ最大の使命であったのではないかと思えるわけです。

そんなことを考えながら、私は10周年ライブに参戦したのでした。

 

ももクロの、常に「現在(いま)」に向き合い、挑戦し続ける覚悟 

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パンフレットと「クローバーとダイヤモンド」の時に降ってきた紙吹雪

ライブの詳細は、全人類がブルーレイ等で見るべきだと思うので割愛します。

私から言えることはごくわずかで、

彼女達は、これからも変わらず「力いっぱい歌って踊ること」を続けていくんだ!という強い意思・覚悟を、ライブの最初から最後まで、歌詞にのせ、曲にのせ、ダンスや表情にのせて、猛烈に、そして高らかに、宣言していました。

ドームで見た4人の姿は、幕張の時の4人とはまるで別人のように見えました。

 

続けることの「悩み・苦悩」と「喜び」を同時に背負う彼女たち

みなさんは青春時代に、誰か・何かのために、10年間継続して、何かをやり遂げたという経験はありますか?「継続して努力してきた」と誇れるものはありますか?

私にはない。青春時代はオタク活動に精を出していたけれど、何か成し遂げたか?本気でやってきたか?と言われれば、そうでもない。自分の仕事(研究)だって、学生生活を含めても5年ちょっとの経験しかない。でも、たとえそんな数年の経験であっても「できない自分」と向き合うことは、辛さを伴う苦しい経験である、ということは知っています。

確かに、死にものぐるいで頑張ったおかげで、良いものができて、それでみんなが笑顔になってくれたら、それは「とても喜ばしいこと」であると思う。その時は「頑張ってきて良かった〜〜!!」と、達成感や、やりがいも、ひとしおのことだろうと思う。

でも、良いものをつくればつくるほど、頑張れば頑張るほど、周囲からの期待値は上がり「次も今回と同じレベル、あるいはそれよりももっと上のレベル」が要求される(ように感じる)のだ。それは、当事者の責任感があればあるほど、強く感じてしまうのである。

常に成長しなくてはいけないというプレッシャー」に晒されることは、自己実現のための起爆剤となる側面ももちろんあるが、多くの場合は、当事者を苦しめることにもなる。たとえそれが、好きで始めた活動だったとしても。

彼女達が「期待される喜び」と「それによるプレッシャー」とを、両方同時に抱えながら活動をしていて、気持ちも心も「いつだってギリギリ」であったことは、簡単に想像できる。それでも彼女達は「笑顔とダンスで幸せを運ぶ」という使命を果たしたいという思いで、全てを乗り越えて、ここまでやってきたのだろう。

そんな中で、「ついに10年!ここまでやってきたね!!」という大きな節目を迎える直前で、有安という大きな戦力(役割)を失うことになって。もし私が4人側だったら、いくら有安の幸せを願った選択だったとしても、もう、どうして今なの?!ここまでやってきたのに!って思ってしまうし、メンバーとしてはどうにかできなかったのかなぁって、めちゃめちゃ責任を感じてしまうだろうし、それこそ目の前が真っ暗になってしまったり、すると思うんですよね。

 

それでも「笑顔でいて欲しい」という願い

もし、ちょっと歯車がずれていたり、ボタンをかけちがったりしていたら、彼女達の緊張の糸は、切れてしまっていたかも知れない。「もう、やるだけやってきたよね?」と、解散する流れに進んでいってしまっていたかもしれない。

そんな状況であったのにもかかわらず、10周年という節目の、ここぞ!という舞台で、会場に集まった数万人に対して、彼女達は

  • どんな困難に直面したとしても、全てを受け止め「今」に向き合って挑戦し続けるという覚悟を宣言すること
  • その覚悟を、口だけでなく、完璧なパフォーマンスをもって体現すること

これを、成し遂げたわけです。

なんというか、人間の成し得る所業ではなくない???と、私は思うのです。

まずね、その「覚悟」の宣言・体現を可能にした、彼女達がももクロで過ごした10年で培ってきた「経験値とプロ意識」とか、そういうのもすごいんだけど、

「なぜそこまでして頑張り続けられるのか?」「活動のモチベーションは何なんだ?」ということを彼女達のコメントから類推するとね、きっと

  • もっと成長したい
  • みんなで新しい世界を見たい
  • みんなに笑顔でいて欲しい、応援したい
  • その笑顔の理由が、私たちだったら嬉しい

とかなんですよ。

実際に、リーダーのかなこちゃんは、ライブ後の挨拶で

(前略)まだ4人でできることはたくさんあるし、やりたいこともたくさんあるし、ももクロだからできること、みんなとだからできることを、ちゃんとやっていきたいなって。アイドルが最強だって、ももクロってホントに楽しいって。そんなふうにもっともっとたくさんの方に思ってもらえるようにがんばりたいと思います。(中略)ちょっといい人ぶると、みんなが笑顔になる理由が私たちじゃなくてもいいって本気で思うんです。でもちょっとだけ欲を言うと、その理由が私たちだったらいいな、なんて思います。みんなにもっと笑顔を届けられるように、みんなともっとたくさんの景色が見られるように、歩いていけたらいいなと思います。(引用

 

と、言っているのです。信じられます?みなさん、こんなモチベーションで仕事なんてしたことあります?私は無い。こんな文言を、会場にいる数万人の前で、堂々と宣言なんてできます?薄汚れちまった魂の私には、到底できないよ。

さてはみんな、聖人なのかな…?」と思えてきて、私は頭がクラクラするし、私は、そんな彼女達のことを、同じ人類として、心の底から尊敬してしまうのです。

 

目の前でキラキラと歌い踊る彼女達を見つめながら、「10年」という時間の重さ、応援してきた時の長さ、そして彼女達の尊さを感じずにはいられなくて。

今まで私たちがしてきた応援が、彼女達の活躍を支える一部となれていたのなら、本当に幸せだなと、ただもうほんとそれだけです。良きものを見せていただけてありがとう、という気持ちなのです。本当に。

 

ちなみにこれ、10周年を記念してリリースされた楽曲なんですけど、いいから聞いてみて欲しい。私が何を言いたいのか、きっと伝わると思うので…!


【ももクロMV】『クローバーとダイヤモンド』Music Video

 

元緑推しとしての(私の)覚悟

まだももクロを応援してるの(推しが辞めたのに)?

杏果ちゃんが卒業してしまった後、私が緑推しと知っている人からは「緑の子やめちゃったけど、まだももクロ応援するの?」と、よく尋ねられました。

 

tkzwy.hateblo.jp

上でも書いたように、私は、あかりんや杏果ちゃんや、ももクロから去ってしまった子たちが迎えられなかった、ももクロとしての節目の10周年を、この目で見たい、お祝いしたいなと、思っていました。それは真実なのだけど、「その先」はどうしたらいいんだろう?という気持ちもあって、正直なところ、とても複雑な気持ちでした。

かなこちゃん、しおりん、あーりん、れにちゃんのことも好き。みんなそれぞれ可愛らしく魅力に溢れていて、本当に大好きだけど、そこに並んで、一緒に笑っていてほしかった杏果ちゃんは、もうそこにはいない。私がこの目で見てきたももクロの歴史は7年に過ぎないけど、その間はずっと杏果ちゃんを推してきた。気付けば杏果ちゃんのことを目で追っていた。ライブでは全身緑色に武装して、声がかれるほど彼女の名前を叫んでいた。

10周年ライブの本公演に当選して、4人での新たな門出を見守る立場として、応援するつもりで参加することにしたのにも関わらず、「10周年はみんなで迎えられると思ってた」と卒業時に吐露していた杏果ちゃんの気持ちを思ったら、サイリウムを緑以外の色に灯すことができなくて。

続けていく4人のためのライブなのに、ここにいていいのだろうか・・・と、ライブが始まるまで、ずっとずっと悩んでいた。

更に言うなら、4人の姿を見ることさえ少し不安だった。なんだか、杏果ちゃんがいなくても、元気にやっていけているももクロちゃんたちをを認めてしまうのが、とても怖かった。本当にひどい話ですし、いろんな人に怒られそうだけど、どこかで彼女達の中に「緑ロス」を見出して、客観的に「やっぱり杏果がいないと・・・!」と思いたい、という私の勝手な気持ちもありました。 

 

・・・なんですけど、そんな思いは、とある一曲の「開始0.5」秒くらいで、一瞬にして打ち砕かれたわけです。

 


ももいろクローバーZ『90sec. Rise of TDF #3』

これね。

「もう一生聞くことはないんだろうな」と思っていた(よね?)、有安曲でもある「ゴリラパンチ」が、2018年ボスゴリラ:あーりんの絶大な努力によって封印が解かれたのです。

その瞬間から、会場は一気に熱狂の海と化したわけですよ。

うおおおおおおああああああああ!!!!!っていう、あんなに凄い歓声と雄叫び、人生で初めて聞きました、私は。

 

元緑推しのとしてのひとつの「答え」

ライブでは、一曲目から、新しい「Z伝説」が披露されて、曲中では有安の卒業も、あかりんの卒業と同列に「ネタ」として昇華されていて、つまり「今までのももクロ」を「刷新」するための演出が施されていた訳なのですけど。この時点では、心のどこかで、やっぱり「寂しいな」という気持ちを感じていた緑推しがいたんじゃないかなと思うんです(少なくとも私はそうだった)。

でもこの「あーりんのゴリパン」からは「今まで杏果ちゃんが担ってくれていた役割も全て吸収して、新しいモノをつくっていこう」という、4人の、尋常じゃない「強い気概」が伝わってくるわけです。しかも、4人はそれはもうめちゃめちゃに楽しそうにやってのけるわけですよ(この様子はぜひブルーレイで見て欲しい!!!)。

 

彼女達はもう、とっくに前を向いていたんだな〜と。

過去にとらわれて前を向けていなかったのは、私の方だったんだな、と思いました。いつまでもうじうじとしていた自分が、恥ずかしくなってしまいました。

 

この粋なセットリスト、この最高すぎるパフォーマンスによって、絶望に打ちひしがれていた緑推し(すくなくとも私)はとても心が救われたし、「推しの卒業」という大すぎる変化を、前向きにとらえられるようになる、ひとつのきっかけにできたんじゃないかと思う。

10周年ライブを経て、私は以前よりも、もっともっと、4人のことが大好きになりました。

心の底から感謝の気持ちを伝えたいし、きっと私はこれからもずっと、そんな素敵な彼女達、彼女達が創る「ももクロ」を、推し続けるんだろうなと思います。

 

まとめ:ももクロは「希望」である

歳をとったり、成長したりして、関わる人間が増えれば増えるほど、責任が増えれば増えるほど、自分の「意思」や「選択」を貫くことは、どんどん難しくなっていって、多くの妥協を強いられたり、しがらみにとらわれたりするようになっていきます。「自分の人生を生きること」って、口で言うのは簡単だけど、なかなか実現できることではないものです。

でも、彼女達が歩んできた「軌跡」を辿ると、あかりんも、ももかちゃんも、そして、かなこちゃん、しおりん、あーりん、れにちゃんも、それぞれが、それぞれの分岐点で、自分の意思も相手の意思も、同じように尊重し、受け止めた上で「では、自分たちはどうするか?」ということを、自分たちで考えて、進むべき道を決めて歩んできている、ように見えるのです。

彼女達の身にこれからどんなことが待ち受けているのかは、私には全くわからないけれど、私はこれからも、彼女達には「納得できる自分の人生」を歩んでいって欲しいなと、心の底から思うのです。

なぜなら、私(たち)のような「自分の人生を懸命に生きたい人」にとっては、「自分の人生を自分で選んで生きていく」ということを体現し続けている彼女達は、

まさに「希望」そのものだからです。

だからこそ、私たちは彼女達に惹かれているんじゃないかと。そう思うわけです。

その「希望」が、ももクロという「アイドル」として存在し続けてくれる限り、私はこれからもサイリウムを振り続けると思うし、たとえ「解散」という道を歩むことになってしまったとしても、その時はとっても寂しいけど、私はその選択を受け入れるだろうし、心の中で、彼女達の幸せな人生をずっと応援していくのだと思います。

 

・・・うん、書いてて涙が出てきました。笑

改めまして、ももクロちゃん、10周年おめでとうございます!

これからもずっと大好きです!!!!!

 

ざわこより