箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

適齢期女性による「結婚を『人生の墓場』にしないため」の一考察。

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適齢期を迎えたアラサーの胸中

ここ数年、結婚報告を聞く機会が増えた。

私も適齢期を迎えた人間なんだなあと思う。

ある一人の人間が、素敵な人と出会い、結婚したいと望んで、その願いが叶ったのだから、おめでたいことである。何者でも無かった「自分」という一人の人間に、生涯「寄り添っても良い」と思ってくれる人が現れて、それが現実のものになるって、本当に有り難いし、とても心強い話だよな〜と、未婚・彼氏いない歴1年の私は思うわけである。

嬉しそうに報告してくれる友達に、私は「おめでとう!」と声をかけるし、心から、幸せに過ごして欲しいなと、そう思っている。

 

けど私は、必ずしも「結婚生活=幸せ」ではないということも知ってしまっている。

よく「結婚は人生の墓場だ」と言う人がいる。

結婚したカップルの3組に1組(35%)は離婚しているらしい。

各種SNSで、キラキラして充実した、ていねいな結婚(新婚)生活が披露されている一方で、恋人・配偶者に対する不満は、毎日毎日あらゆる媒体で垂れ流されている。

ちょっとした小言から、DV、モラルハラスメントに及ぶまでの広い範囲を網羅したこれらの愚痴たちは、SNSマイクロブログのユーザー同士によって拡散され、何千何万という共感を得て、まるで魂(怨念)が宿った生命体のようにネットの海を延々と泳いでいる。

テレビを見ていれば、浮気や不倫・スキャンダルの話ばかり。乳幼児の虐待等の話も、後を絶たない。

 

こうやって表沙汰になるのは、きっと氷山の一角なんだろう。

そう思うと「私の目に見えていない部分で、実際にはもっとたくさん辛い体験をしている人がいるのかも知れないなあ・・・」と、とても苦しい気持ちになる。

だって、彼らのうちの多くは「病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、愛し、敬い、慈しむ事」を誓った中のはずなのである。みんな、不幸になることを願って恋愛・結婚したわけじゃないだろうに、なのに、なぜ、上手くやれている人たちと、そうでない人たちがいるのだろうか。

一体何が、どんな要素が、彼らをそうさせているのか。

なぜそんな結末に、辿り着いてしまったのだろうか。

それが気になって気になって仕方がない。

 

だって、原因やその背景がわからない以上、私には「絶対にそんなことにはならない」と断言できる自信がないし、対策の打ちようもない。

そんな中で、たとえ「子を産め!」と政治家に言われたとしても、たとえ自分の意思に基づいた「子供を産み、育てたい」という願望があったとしても、なかなか、恋愛・結婚する勇気や気力は湧いてこない。

自分の行動によって誰かを傷付けたり、誰かの行動によって自分が傷ついたりするリスクが増えるくらいなら、「結婚なんてしないで、生きるのに足る程度のそれなりのお金を稼ぎながら、ひっそりと生きていく方がいいのでは」とさえ、思ってしまう。

 

「結婚を『人生の墓場』にしない」ための考察

アラサーになってびっくりするのは、結婚・恋愛に関する様々な情報が、あらゆる方面からどんどん入ってくることです。その大半は結婚・出産話だったりしてソレは良いのですけど(多少は焦るが・・・)、時々、ものすっごくヘビーな話が、舞い込んできたりします。そしてそのヘビーなトラブルの話や、実体験を、集約して考察した結果「自ら墓場を作り、周囲の人間を道連れにしてしまう人」には、一定の傾向がありそうだという結論に辿りつきました。

自ら墓場を作り周囲の人間を道連れにしてしまう人の特徴

  1. 自分の人生を「他人任せ」にしている人
  2. 相手を「尊重・大切にできない」人
  3. 自分の意見を「感情や態度で通す」人

順を追って説明していきたいと思います。

1. 自分の人生を「他人任せ」にしている人

まず「自分の人生は『自分の選択』によって決めることができる」という実感が持てない人とは、周囲とトラブルになりやすいみたいです。

たとえば「自分の幸せは配偶者が与えてくれるモノ」と、本気で思っている人がいたとしましょう。その人がもし「現状に十分満足」していればよいのですが、長く一緒に生活していたら「満足できない」「納得できない」「思い描いていた生活が実現できない」という状況が訪れてしまうこともあるわけじゃないですか。

そういう時に「自分の人生を他人任せ」にしている人は、

夫婦・恋人間で協力し合って解決するための労力を払うこともなく、「こんなはずじゃなかった」「自分が幸せじゃないのはアナタのせい」と、自分以外のモノ(他人や環境)を責める傾向があるようです。

もし現状に不満があるなら、二人や家族にとってベスト、またはベターな解決策を「その都度きちんと話し合って、導き出すこと」、それを「自分の意思で選択して行動すること」が重要なはずで、その「意見のすり合わせ」こそが、結婚生活の醍醐味であり、他者と協力して家族を運営していくおもしろさなんじゃないかと私は思うのですけど、

その役割や責任を放棄してしまう人がかなりいるという事実に、驚きを隠せません。

 

2. 相手を「尊重・大切にできない」人

ここでの「相手を大切にする」というのは、「重い荷物を持ってあげる」「デートにたくさん行く」「記念日を大切にする」とか、そういうことではありません。

「相手をきちんと人間として扱う」ということです。これができない人もまた、トラブルを引き起こしがちのようです。

どういうことかと言うと、世の中には

あなたは交際相手・配偶者・家族なんだから、

自分に○○してくれて当たり前(それをしても許される)

という「役割」を振りかざして、相手の「個」を、自分の都合の良いように利用・搾取・正当化しようとする人が、びっくりするほど多いんです。

「彼氏なんだから、もっと私に優しく接してよ!」「俺の彼女なんだから、このくらい許してくれるよね」「アナタは旦那なんだから、私や子を養うのは当然の義務でしょ」「俺の妻なんだから、家事育児はお前の責任だろ」

「私」というひとりの人間は、両親から命を分けてもらい、名前を与えられた唯一無二の存在であり、他者であっても同様です。私たちは「役割」と交際・結婚するわけではなく、ひとりの「個」と共に、時を過ごしているのです。その「個」に対して、誰かが何かを強制・強要したり、行動を制限したりして良い権利など、あるはずがありません。そこには血がつながっていようがいまいが関係無くて、もし「相手が『嫌だ』と感じる行為」を自分がしてしまったのなら、素直に謝り、以降はそれを絶対に繰り返してはいけないし、相手から何らかの意思を伝えられたのなら、他でもない「自分」が耳を傾ける必要があります。

これが「相手を尊重・大切にする」ということです。

逆に、何かしてもらえて嬉しいことがあったのなら、それを「当たり前」と思わずに、毎回きちんと「ありがとう」と、感謝を伝えることが大事なのではないかと思います。

 

3. 「感情や態度」で自分の意見を通そうとする人

これは2の悪質バージョンとも言えます。

「役割」のみならず、「感情や態度」でも相手の行動を、縛る、無理に意見を通そうとする行為は、極めて幼稚で、これもまた大きなトラブルの元です。この行為が許されるのは乳幼児、ギリギリ譲歩しても、反抗期の中高生じゃないですかね・・・

何かトラブルがあった時、いくらストレスがたまっていたからといって、相手が賛同してくれなかったからといって、誰かに当たり散らしたり、誰かを傷付けるようなことを言ってみたり、そんなことをしていいはずがないです。他者の「心」や「尊厳」を、傷付けて良い権利なんて、たとえ家族であろうと他人であろうと、存在しません。

 

誰かとの話し合いの場になった時に、不機嫌・横柄な「態度」や、怒り・悲しみといった「感情」を持ちこむと、周囲の人間は「そこまでいうなら・・・」と折れて、結果として意見が通りやすくなる、みたいなことは、確かにあるかも知れません。

「他者と議論する手間」を丸ごとスキップできて、「自分の思い通り」を速やかに実現できてしまえそうな気にさせてしまう「魔力」が、この「態度や感情を持ち込む」という切り札を、何度も使わせてしまっているのかも知れません。

でも、この「切り札」は、かなりの諸刃の剣で、使えば使うほど、その回数だけ、相手の意見や考えを、封殺・黙殺することになります。そうするとどうなるかというと、その剣を振りかざされる度に、黙殺された側は、着実に不満を蓄積していきます。そしてそれと同時に、その「切り札を使い続けている人」に対しての信用度は、瞬く間に目減りしていくでしょう。

このことに気付けずに、自らの信用を自ら失墜させていく人は、割とたくさんいます。

これを繰り返してしまったら最後、愛想をつかされて交際解消・離婚となるか、相手の魂が死んでしまうかの、どちからになるでしょう。

もし、交際関係・結婚関係を続けていきたいと願うのなら、

危険すぎる「諸刃の剣」はさっさと捨てて、安易な手段に頼らず、二人や家族にとっての「ベスト」、ベストでなかったとしても「それなりにベター」な解決策を導き出すための「努力」を、絶対に惜しんではいけません。

議論することが「円満な関係性を築いていくためのスキップできない重要なプロセスである」ということに、早く気付いた方が良いと思います。

 

ダークサイドに見る「精神の幼稚性」と「攻撃性」

以上の3つが、私の中では「人生の墓場化」を避けるための結婚生活の秘訣(?)になりそうだということがわかった訳ですが、これらに共通していることとして「精神の幼稚性」という要素があるんじゃないかと思います。

上に記したようなダークサイド*1に墜ちかけてしまっている人々の話を見たり聞いたりしていると、なんだか

まだ身も心も子供だった頃の「自分で自分の環境を選ぶことができなかった」時の、あるいは「無条件で自分が守られ・許されていた、あるいは与えられていた」時の「面影」を、節々から感じてしまうのですよね。

彼らはひょっとしたら、その子供だった頃から「精神がうまくアップデートされていない、成熟できていない」のかも知れないと、私には感じられました。「なぜそうなってしまったか?」という理由は、それぞれの育ってきた環境によると思うので、わからないのですけど、なんとなくそう思えるのです。

 

一方で、ダークサイドは、精神が未熟だろうが完熟であろうが、万人が持ちうる・墜ちうるものだとも、思うんですよね。

それは、誰もがみんな、多かれ少なかれ「心の弱さ」を抱えているからです。その心の「弱いところ」を守るために、ある人は「話を聞いて欲しい」「共感して欲しい」「手を貸して欲しい」と打ち明けるし、ある人は「誰か」あるいは「環境」が悪い、自分は悪くないのだと、主張するのだと思うのですけど。

でもその「弱さ」を守る手段として、どんなに自分が辛い状況にあったとしても、絶対に絶対にやってはいけないことがあって、

それがきっと「何か」に対して「攻撃すること」であり、

それは先述してきた「誰か」や「心や身体」を「ぞんざいに扱うこと」でもあり、また「感情や態度」で「相手の行動や思考を制限したり、責めたりすること」でもあり、これらの行動に内在する「攻撃性」こそが、周囲の人々巻き込み、不幸にする最大の要因なのではないかと私は思います。

 

「何か」には、人の心や身体も、あるいはモノも含まれるし、それは自分のものでも他人のものでも、家族でも恋人・友達でも、全てに当てはまります。

人やモノを傷付けずとも、心の弱いところを守る手段はたくさんあります。身近なところにもネットの海にも、助けを求めたら誰かが答えてくれるひとがいるはずです。自分の弱さに押しつぶされそうなほど辛くなってしまった時は、専門家の手を借りてケアしてもらうことだって、できるはずです。

だから、もしコレを読んでいて、少しでも心当たりがある方は、これ以上、自分の「弱さ」を免罪符にして、自分の側にいてくれる人のことを、わざわざ傷付けようとしないでください。

傷付けてしまったその相手も、自分と同じ「弱さを抱えている人間」であることを、忘れないでください。側にいる人から与えられた傷は、他人から与えられた傷よりも、深く、鋭く刺さり、相手の心を蝕んでしまうことを、理解して欲しいなと思います。

それが理解できないのなら、きっと結婚はしない方がいいんだと思います。

 

私たちはもう大人で、多くを望みすぎなければ、自分で自分の思うような環境を選んだり、人生を切り開いたりしていける力があるはずだし、他人の人生を見たり聞いたりしていく中で「今までの『当たり前』は、当たり前ではなかったのだ」と、価値観を刷新することも、理想的にはできるはずなんです。

その理想を追求する覚悟も、責任を負う覚悟も持てないような人も、同じように、結婚には向いていないんだろうなと思います。

 

結論

以上をまとめると、こういう要素を持った人となら、たとえ大変な困難に直面したとしても、楽しく夫婦生活を送っていけるんじゃなかろうかと思いますね。

  • 自分の人生を自分で切り開いていく意思のある人
  • 相手を「一人の人間」として尊重できる人
  • 自分の意見を建設的に伝える努力ができる人、そこからベターな解を導くための議論ができる人
  • 精神が年相応に成熟している人
  • 「攻撃されると悲しい」と理解できていて、実際に攻撃しない人

ということかと思います。ハイ。

誰かの何かの参考になれば幸いです。そして誰か、もし周りにこういう人がいたら私に紹介してください(切実)

 

以上

*1:物事の暗い面。悲惨で、醜悪な面(三省堂大辞林より)

博士学位論文(D論)をしっかり書いた方が良い理由

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正直、やる意味なくない?

博士号を取得するためにやらなくてはいけないこと。

それは「博士学位論文」の執筆です。

かねてより私は、この博士学位論文(通称:D論)に関して、納得いっていないことがありました。

それはD論執筆の意義、です。

D論を書く状況にある学生は、みな一度は考えるのではないでしょうか。

 

Twitterでの質問に対する反応

当時の問いかけに対して、集まったコメントとしては

  • 特に理由なんてない
  • 修了するための「儀式」のたぐい
  • 「学位取得に足る資質がある」ことを専攻の教員に示すため
  • 出版(or投稿)論文を束ねて、短いイントロ&コンクル付け足してD論とするのが増えているが、全ての学生が複数の論文を出せる/書けるわけではないので、その場合は普通のD論を書くしかない 

というものがありました。

 

それを聞いた私の反応

こんな意見を聞いて、更に私は

  • 特に「やる理由がない儀式」って何?
  • 「学位取得に足る資質」って何?そのうちD論で評価できる要素って何?
  • もし投稿論文をD論で代替可能なら、卒業要件に「出版(投稿)論文●報」って要らなくない?D論だけ書いて卒業で良くない?)
  • もしD論を投稿論文で代替可能なら、在学中に論文を複数出版している人は書かなくても(別刷りの提出で)良くない?
  • もし「D論=投稿論文のコピペ集+α」なら、「α」の部分に意義や価値を明確に示せない限り、やる意味なんて無くない?

と、ブチ切れる訳です。笑

「体裁を整えるだけなんだから」とか「主著論文が数本あるだけいいだろ」とか「そういうものなんだから書きなよ」とか言われても、全然納得できない。そういう問題じゃない。

だって、そんな「やる意味が見いだせない曖昧なモノ」を作るための準備にかける「それなりに長い時間」は、次の投稿論文の執筆に充てた方が、よっぽど価値があるんじゃないの?と、私には思えるからです。

・・・と、こんな感じであーだこーだと文句垂れつつも、結局学位を取得するためには書くしかなかったので、どうにか書き終えた訳なんですけど。

 

働き始めて数ヶ月、いよいよ研究がスタートしつつある今になって、確実に言えることがあります。それは

D論はちゃんと書いた方がいい」ということです。

それも、ただまとめるだけじゃなくてしっかり時間をかけて、じっくり考えて書いた方がいいです。

なぜか?

なぜあんな文句を言っていたくせに、そういう結論に辿り着いたのか?今回はそれについてお話できたらと思います。

私のような「ああああああD論めんどくせ〜やる価値見出せねえ〜〜やりたくねえええええ」とお思いの博士課程学生各位に、「自分次第では、D論執筆は案外有意義なものにできるよ」ということを、(自戒を込めて)お伝えできたらと思います。

 

***

やっぱりD論はしっかり書いた方が良い理由(私的解釈)

これから話すことは、博士学位論文というもの対して

  • その必要性に関して「誰も明確な説明や根拠を示していない」けど、
  • 「現在のような学位取得システムが今後も採用され続ける」という前提で
  • その中で「私が意義を見出すならこういうところ」

という内容になっています。学位取得システムの是非・・・などについては取り扱いませんので悪しからず。

 

***

投稿論文の役割

学生のみなさんは、在学中、投稿論文ってどんな目的で書いているでしょうか?

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投稿論文の役割は「今までの軌跡を示すこと」
  • 自分が研究で得た有意義な成果を世に公表するため
  • 集まったデータを整理してまとめるため
  • 卒業要件を満たすため

いろいろなモチベーションがあると思いますが、共通しているのは「今までやってきたことや、その成果」を、まとめる、あるいは区切りをつけるために書いている、という点にあると思います。

 

単純に図示してみると、以下のようになります。

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矢印の左端が過去、右端が現在。昔から今に至るまでに、研究対象への理解が進み、研究が発展していく様子を表しています。

 これらの「研究した末に理解できたこと」「その内容について論文を執筆し出版すること」の繰り返しによって、サイエンス、そして研究者としての人生は前に進んでいくように見えます。

 

新定義!博士学位論文の役割

このままの学位取得プロセスが今後も継続されていくとするならば、私たちは「博士学位論文」に対して、投稿論文とは異なる何かしらの「やる意義」を見出したいところです(このままではやる気が出ないから…)。

 

そこで!!!

その「学位論文執筆の意義」について、自分の経験を含めて、私は以下のような解釈を提案したいと思います!!!!!

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博士学位論文の役割は「(今までの成果・軌跡を踏まえた上で)これからの道筋を示すこと」ではないだろうか?

投稿論文が「今までのこと」を書くモノなら、学位論文は「その先(達成したい課題・命題)」を考え、体系的に述べる訓練の場とする!という考え方です。

 

これは、ただ単に「投稿論文との差別化」ができるというだけではなく、このようなモチベーションで学位論文の執筆に取り組むことによって、

今までは、提出されたら最後、指導教員と大学図書館に埋葬されるしかなかった「学位論文」の存在を、この先の研究者人生を送る上での「重要な糧」と位置づけることができるようになると思います。

 

やる気になれないD論執筆も「良いチャンス」にしてやろう

在学中って、ほとんどの学生は「学位を取得すること」を目的に、目先の「やるべき課題」をしっかりこなそうと、努力を積み重ねていますよね。

でもその一方で、

  1. 自分がやってきた研究の軌跡〜現在地をじっくり振り返ること(体系的に整理したり、立ち位置を理解したりすること)
  2. これから先、研究者人生の中でどのような課題・命題を、どのような道筋で解決してきたいか?を描いてみること
  3. 自分のやってきた・やりたい研究が、どのように学界に貢献できる(と期待できそう)か、ビジョンや意義を考えたり、ポンチ絵を描いてみたりすること

ということを考えるための「まとまった時間」を、実はあまり確保できていないことが多いです。

「そんな余裕無いし、卒業してからゆっくり考えればいいのでは?」と、思えたりもするのですが、実は卒業したらしたで、その後働き始めてしまうと(雇用先の方針にもよりますが)、今度は雇われ先での業務に追われてしまうケースがとても多いです。

そうすると、結局「じっくり考えるための時間」というものは、なかなか訪れてくれないのです。

なので、上記1-3のような事柄について、在学中に、できれば研究者生活をスタートさせる前に、しっかりと確保して、他人の目にも見える形でまとめておいた方がいいと思うわけです。

そしてそれらをまとめたものを、博士学位論文として執筆し、提出するというのが、最も有意義な時間の使い方なのではないか?というのが、私の持論であり、提案です。

 

理想を言えば、こういう事柄は、常日頃からしっかり考えながら研究していくのが一番良いのでしょうけれど、そんなことを当たり前のようにこなせるのは、一部の「超優秀な人たち」だけで、私のような凡人は、いつも研究や課題に追われていて、日頃からじっくり考える時間なんてちっとも確保できない訳ですよ・・・。

でも、でも!!!

少なくとも私は、昨年秋頃から数ヶ月におよぶD論執筆の期間だけでも、こういうことを考えながら過ごせたおかげで、

単発の研究課題をすすめている中では理解ができていなかった点について話を詰めることができたし、次の論文の構想にも役立てられているし、なんせ公募の書類や、競争的資金の申請書を提出するのに、ものすごく、役立ちました(多分これを考えられていなかったら、公募落ちていたと思うんですよね。本当のところはわかりませんが…)。

 

また、上記2. の「(研究者人生を通して)達成したい課題・命題」というのは、研究のオリジナリティに直結する部分だと思うので、今後研究活動をおこなっていく上で、考えておくべき、重要な要素なのではないかと、今のところ考えています。

 

ただ、この「オリジナリティ」については私もまだ模索中の身ですし、これが真実かどうかは10年以上経たないとなかなか評価できないと思うのですが、

数ヶ月間の模索でもある程度役立てられているという実体験が私にはあるので、

これからD論を書く皆様におかれましては、せめて1と2だけでも、たとえうまくD論に組み込むことができなかったとしても、ほんの少しでもいいから、考えてから卒業していくことを、強く強く、オススメします。

 

***

以上が、私が提案する「博士学位論文をしっかり書いた方が良い理由」でしたー。

本当はこういう「必要性」みたいなものを、誰かが教えてくれたら、こんなモヤモヤすることもなく素直に執筆できたんだろうけどな〜とも思いますが、自分でそれなりの意義が見出せて、良かったかな?と、今は思っています。

 

この記事を見て、少しでも「面倒と思ってたけど、ひょっとして良いチャンスなのかも知れないな?」と、前向きにD論執筆に取り組める人が増えてくれたら、幸いです。

 

以上です!

大学における研究・雇用・教育と、お金の話。

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私の勤める大学で、本日、大学総長と若手教員が意見交換をできる場が設けられたので、その会に参加してきました。その場で伝えられたこと、会の中で私が考えたことを(殴り書きしたメモを元に)ざっくりと書き起こしておこうと思います。

なお、もし同じ会に参加していて「アレはそういう意図ではなかったと思うよ」等、何か指摘がありましたらお知らせいただけるととても助かります!

***

意見交換会で話されたこと

若手教員を取り巻く現状

会の中で、若手教員を取り巻く現状として、以下の3つが提示された。

  1. 人材不足
    「安定した雇用が少ない」「キャリアパスが不明瞭である」ことによって、せっかく優秀な学生がいても、研究職という道を選ぶ人が減ってしまっている。
  2. 時間不足
    業務等に割く時間が多く、研究に集中できない。
  3. 研究資金不足
    国から配分される研究予算は削られるばかりであり、長期的、あるいは革新的な研究に手を出しにくく、短期的な(すぐ成果が得られるような)研究ばかりになってしまう。

 

それに対する大学の方針(と、総長の考え)

その中で、大学の方針としては

  1. 多様な財源で雇用を確保できるようにする
    クロスアポイントメントの推進や、研究力のある人々(シニアなど?)は自分で自分を外部資金等(競争的資金や民間の助成金などで)で雇えるように、若手は安定財源(国からのお金等)で雇えるような仕組みにしていきたい。
  2. 教員の業績評価の基準を見直す
    きちんと研究している(業績・実績がある)人が評価される仕組みをつくる。逆に、しっかり働いていない人は、BにでもCにでもする(現在見直しがはかられているらしい)。
  3. 若手教員との意見交換を積極的に行い、現状を把握していく

という話だった。

それに加えて、総長からは

  • もう国からのお金が増えることはない(減る一方である)
  • 流動的な雇用、競争は悪いことばかりではない(切磋琢磨しあえる)し、欧米ではそれが普通である
  • 今後は、自分で自分(研究費や研究室、雇用も?)をマネジメントしていく力が必要になる
  • 研究だけしたい人は、大学にいるべきではない(人を教育するには大きなパワーが必要。研究も教育もどちらも完璧にっていうのは難しい)
  • 大変だと思うけど、挑戦する気概を持ち続けて頑張って!!!

とのことであった。

 

それらを踏まえてあれこれ考えたこと

ここからは単なる感想です。一人で勝手に考えていることなので、読んでいる皆様で何か思うことがございましたら、ぜひコメントいただけたら、議論ができるのでとても嬉しいです。

人材はむしろ「余って」いる?

問題点として「人材不足」が掲げられていたが、ポストにありつけずあふれてしまっている人がたくさんいるという現状から考えると、どうも私には、人材は「不足」しているというよりむしろ「余って」いるように見える。もしその言葉の真意が、研究職の「職業としての不安定さ・キャリアパスの不明瞭さ」に対して、幾ばくかずつでも良いから改善していかないと「これからのアカデミズムが先細りしてしまう=将来の日本のサイエンスを担う人間が減る」という意味での「人材不足」であるならば、納得である。

でも私は「将来」のサイエンスを心配するよりも、「今」のサイエンスを盛り上げる努力をしていかないと、その先の未来なんてこないんじゃないかと思う。私たちはまさに「今」、それ成し遂げる気で研究をしているのだから、精一杯頑張るから、やっぱり、ポストが欲しい。

 

もちろん次世代のことも考えなくてはいけないし、それはとても大切なことだけれど、でも当事者である現役世代の我々こそが、解決するべき「今」の課題に主体的に取り組んで、良きロールモデルを作って次の世代に示していかないことには、何も始まらないのではなかろうか。

次世代の「優秀な人」には、こんな苦労をすることなく、安心して、業界でのびのびと研究して活躍していってほしい。そのためには、不遇の時代は、我々の時代までで食い止めなくてはならないと、強く感じます。

 

また、将来直面するであろう「人材不足」に関して言うなら、

「優秀な人材」というのは、多くの場合、良い環境で、質の良い教育を受けて、はじめて、芽が出てくるものだと私は思います。そして「良い研究」というのも、比較的、そういう安定した環境から生まれ、育ちやすいのではないかと思います。なので「人材不足」に対する解決策としては、ただ単に進学する学生を増やすだけに終わらせず、どのようにすれば、質の良い教育・研究環境を提供できるのか、という視点を持って、教員それぞれが試行錯誤していく必要があるかなと、感じています。

 

切磋琢磨は重要だけど、みんな明日のご飯が食べたいの(涙)

「競争」が自己研鑽につながるというのは、良く理解できる(ライバルがいた方が、燃えたりするし)。でもそれは「この努力を続ければ、将来的に何か良いことがある」と、何となく成功イメージを具体的に持てる時に限られるんじゃないかと思う(例えば、部活動であるライバルがいたとして、その中で不断の努力が続けられるのは「自分が相手の力を上回れば、勝利することができる」という成功のイメージが湧くからである)。

研究業界にいて、そのイメージを描けるとすれば、おそらくそれは、ある程度「自分の仕事に自信が持てるようになった段階から」だと思うんだ。

だって、明日のご飯(雇用)があるかどうかというギリギリな中で、更に「過度な競争」にもまれたら、焦燥感で精神は疲弊するだろうし、余裕が無くなって視野も狭くなりそうだし、どんどん良い研究がしにくい状況になって、気持ちも研究力も落ちていってしまうんじゃないかなって思います。そして(多分ですけど)、これについては日本の若手に限った話じゃなくて、欧米の若手だって、同じ問題を抱えているんじゃないかと思う。だから「欧米もそうだから、我々もそれにならう」という考えだとしたら、それはちょっと違うような気がしてならない。

一方で、国(世界)全体でお金がなくなってきていて、人を雇う・研究をするための財源が限られているというのも、よくわかる。

ちゃんと努力した人が、適切な評価を下されて、その結果ずっと仕事が続けられる、そういう世界になって欲しいだけなんだけどな。生きるって大変だ。

 

大学は企業の下請けじゃないゾ〜

今回は若手教員向けだったので、教育よりも研究にフォーカスした内容だったのかもしれないのだけど、会の中では、産官学連携の研究や、民間の外部資金を獲得することを強く勧めているように聞こえました(私にはそう思えたのだけれど、どうだろう)、そうすればお金もたくさん配分されると。

でも、個人的には、企業(とそこのお金)が絡んだ研究って、ちょっとネガティブな印象があって。

以前、とあるスポンサーがついたプロジェクトの中で研究をしたのですが、当時私が出したデータが、そのプロジェクトの趣旨そぐわなかったことがありました。そして発表日の前々日になって、突然「これは発表しないで欲しい」との旨を伝えられました。せっかくそれなりの時間を投資し、試料を処理して測定して、データの整理も議論もして、準備までしていたのに、私の意向は関係無しに、発表する権利を奪われたのでした。

もしこの研究が「学生が丸3年かけて進めたテーマ」だったら?あるいは、ものすごく良い結果(莫大なお金が生まれるような成果)が出て、突然「第一著者(あるいは特許主)はうちの企業に」と、なってしまったら???

幸い、その時のテーマはお手伝い程度で進めていただけだったので、業績等に大きな支障は出ませんでしたが、そうなってしまった時のことを思うと、結構気分が落ち込みます。

もちろん「成果が出た時はどうするか」ということは、研究がスタートする前に企業側と取り決めておけば済む話かも知れませんが、自分がその研究の「責任者になれない」とか、「データの所有権を持てない」(かも知れない)という状況は、あまり心穏やかなものではない(と、個人的には思う)し、何かとトラブルの元になりそうなので、注意が必要だろうな、という気持ちがあります。

希望を言えば、やっぱり大学がきちんと研究の主権を握って、企業側に「御研究室に寄付させて下さい!」と言ってもらえるくらいの研究力を付けたいところだなと思いますね。一体どうすれば達成できるのだろうか。

 

あと、今回の議題とはそれるけど、プロジェクト型の研究はその性質上「得られた結果に対して自由に発想する」という機会が奪われがちなので、そういう研究に取り組む学生は、その点十分に気をつけた方がいいなって思います(経験談)。

 

教育のためのお金はどう確保するの?

競争的資金や民間の助成金、産官学連携で得られる資金というのは、確かに研究費を確保するための選択肢としては重要そうに見える。私だって、取れるものなら継続的に獲得していきたい気持ちでいっぱいだ。

では、大学として、教育のお金は、どのように捻出するべきなんだろうか。

大学は国の研究機関であると同時に、高等教育機関でもある。その一方で、国から貰える「教育のために使って良いお金(運営交付金や教育経費)」の分配は常に減り続けていて、これからそれが増えるという見込みは一切ないらしい。具体的には、現状で、学生ひとりあたりに対して付くお金(教育経費)は、たった10万円前後でしかなくて、この額というのは国内学会の参加費や、論文一本の掲載料に足りるか足りないかという程度で、1年間「満足のいく教育活動」をおこなうには、どう考えても不十分である(全く貰えないよりは、貰えた方が良いのだけど)。

国からのお金の分配に期待できない以上、企業に頼らざるを得ないというのは、至極全うな考え方にも見えます。けれど、それって、もし企業からお金がもらえなくなったら、大学では研究も教育も全てストップしてしまうってことですよね???

果たして、それでよいのでしょうか。

 

***

研究のお金、人を雇うお金、教育のお金。

お金が限られている中で「無い袖は振れない」という現状があるのも理解していますが、今後日本でサイエンスを続けていくことを願うなら、なんとしても、研究も、雇用も、教育も維持していけるような、持続可能なシステムを構築していくより他ありません。

そのために、今の私たちに何が出来るのか?どんな提案ができるのか?

真剣に、主体的に考えていく必要があると思いました。

 

以上です。