箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

自分に呪文を唱えながら生きる

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何かに対する不安があったのかも知れないけれど、小さい頃から漠然と「私も愛されたいなあ」と思っていた。

 

多分それは、小さい(幼稚園生くらいの)頃から、セーラームーンをアニメで見ていて、友達のために泣いたり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、好きな人に真っ直ぐに気持ちを表現したり、そういうことが自然にできるうさぎちゃんのことを、周りのみんなが愛している、慕っているところを、ずっと見ていたからだと思う。というか、慕っていたからこそ、セーラームーンが戦いでピンチの時には、みんなが(時には命を投げ出しても)助けていたのだ。それだけの魅力がうさぎちゃんにはあり、その魅力の根源は「素直さ」にあるんじゃないかと、幼いながらに感じていた。

 

一方で当時の私は「うさぎちゃんのようにはなれないなあ」と思っていた。かといって「うさぎちゃんがピンチの時に、身を挺して助ける仲間たちにも多分なれないなあ」と思っていた。私はうさぎちゃんのように自分の「感情」を素直に話すのが得意ではなかったし、「自分が痛くて辛い思いをして戦ってまで、守り抜きたいと思える存在」に関しても、全くもってピンときていなかった。

その違和感のせいか、セーラームーンごっこもとても苦手だった。セーラームーンごっこは幼稚園の女子たちの間では定番のごっこ遊びだった。苦手だったのにもかかわらず、休み時間を女子一人で過ごすのが寂しかった私は、誰もやりたがらない敵役を好んで演じていた。セーラー戦士の人員が不足した時には、仕方なくメンバーとなり、変身の合図(「●●・プリズムパワー・メイクアップ!」という台詞)を発声することもなく、しれっと変身したことにして、瞬時に必殺技を繰り出し、即座に戦いを終了させていた。意外とこの速攻技はウケがよく、盛り上がることもしばしばあったけれど、それでも私にとっては、男子がたくさんいる砂場に行き、いかに効率良くトンネルを掘ることを黙々と考える方が楽しかった。

 

「素直なうさぎちゃんが愛されるのならば…」

と、私なりに素直に過ごしていた頃もあったけど、あまり良いことはなかった。

何かを褒めて貰えた時に「ありがとう」と伝えたら、調子に乗るなと言われた。その姿が目に付いたのか、軽いいじめのようなものもあった。自分の思いを学級アンケートにしたためたら、当時の担任からクラス全員の前で晒し挙げられ「アンタのような人間がいるからいじめがなくならないのよ!!!」と、罵られたこともあった。

人前で怒鳴ることによって言論を封じる行為って、もはや恫喝も同然だと思うのだけど、小学生の担任がすることかよ?と、今思い出しても腹が立つ。

そんな経験から「素直でいようとしても、嫌われるし何故か怒られるし、良いことなんて無い」と、この世界に軽く絶望していた。

 

それでも孤独になることを避けたかった私が、中学生くらいの時に行き着いた答えが「良い人間であろう」というものだった。

「良い人間」というのは、つまるところ「‘都合の良い’人間」である。当時はそんな認識ではなかったけれど、結果としてはそうなってしまっていた。何かに対して不満があっても、とくに反対・反抗することはしなかった。「基本的な決まりごとを外れずに、周囲からのそれなりの期待に応えて生きること」そして「どうしても通したい意見があった時だけは(大人が反論できないような)大義名分をかざすこと」で、学生時代に抱えがちな一般的なトラブルを全て避けることができた。理不尽な目にあったり、傷付いたりする機会も減った。心をほぼ殺して生きていたから、心が動くような感動的な体験をした記憶こそ残っていないけど、当たり障りのない平穏な日々を過ごすことはできたんじゃないかと思う。

 

***

そんな中高時代だったけれど、私にも「自分の気持ちに素直になって、希望を通して本当によかった」と思えることがある。

それが「大学進学」と「大学院進学」である。

「今までの私を知らない人」ばかりの環境に身を置けるということ。しかも「その環境」には、その環境を好んで選んできた人ばかりがいる(はず)ということ。それだけで私の心は高揚したし、ついに私も自分自身で居場所をつくれるんだ!という気がした。

ちなみに、実際に大学でできた友達と話すと、幼少期に「砂場でのトンネル掘り」と「輝く泥だんご作り」に勤しんでいたという人はそれなりの数いた。この経験で、ごっこ遊びより砂場が好きだった幼稚園生の頃の自分が救われたような気がしたのだった。

 

***

「好きなものを好きといえる環境」に身をおけるようになって約10年。長きにわたるリハビリを経てようやく、自分のアイデンティティが確立しようとしている。

私は、たとえ社会の決まりごと、周りが望むこと、社会通念に外れない生き方をしたからといって、必ずしも自分の心が満たされるわけではないと、知ることが出来た。

「自己表現を封じて誰かに愛されたとしても、それは私自身に対して向けられた愛ではないし、うさぎちゃんが仲間たちから受け取った愛でもないし、ただただ『誰かにとっての都合の良さ』という便利さに由来する単なる物質的愛着に他ならない」ということも、ようやく理解できるようになった。

 

それなのに。

「●●たるもの、こうあるべき」

という「社会やシステムにとって都合の良い理想」を、自分自身に押しつけてきた癖が、私の中にはまだまだ根強く存在していて、これがなかなか抜けてくれないのだ。

 

今までは全く自認できていなかったけど、これは

決まりをちゃんと守り続けないと、愛してあげない/もらえないよ」という、愛を人質に取った、社会からの立派な呪いである。

・・・と、私には思えてしまう。実際には、そんな瀬戸際外交みたいなものの交換条件として提示されるような愛なんて、きっと私が欲しかった愛ではないだろうしね。私が推しに捧げている愛と比べたら、どれだけ陳腐なものか。

そんな簡単なことでも、私は気付くまでに30年もかかってしまった。

 

 

この「呪い」から解かれたくて、最近私は「こうあるべき」の型から、少しずつ抜け出す試みをしている。

そのひとつの例が「マニキュアをぬること」なのである。

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最近のお気に入り3つ。キラキラの種類が全て違うんだよ

マニキュアは、私が小〜中学生くらいの頃から、ずっと好きなものの1つである。にもかかわらず、今までは、平日はもちろん休日だったとしても、積極的にはつけてこなかった。むしろ極力、避けるようにして生きてきた。

 

理系研究者で、なおかつ実験をおこなう機会のある人間にとっては、マニキュアはコンタミ*1の原因にもなる上、使用する有機溶媒によっては溶けてしまうこともあり、好んでつけない人が多い。これは理由となり得る事実のひとつかもしれない。

なんだけど、私がつけてこなかった理由は、そこにはない。

だいいち私は、業務の中で、マニキュア由来のコンタミを気にかけるような類いの実験をしていない。実験の時はグローブもする。周囲にそのような実験をしている人もいない*2。だから、言ってしまえば「そこまで徹底して私の生活からマニキュアを排斥する理由」なんて、もともと存在しなかったのだ。

簡単な話で、私はただ自動思考的に「私はつけるべきではない。なぜならば、私が理系に進学してしまったから。マニキュアをつけることは(世間一般論として)理系研究者は避けるべきだし、この仕事を続ける以上私はそれを諦めるべきである」と、思っていたのだ。

 

この「自動思考」というのが、冷静に考えると結構怖いのだ。

このような呪いや刷り込みは、私の中に、あとどれくらい存在するんだろうか。ソレが自分ではわからないのだ。

無意識下で、自分の気持ちを蔑ろにしてしまってはいないだろうか。誰かに対して、呪いをかけてしまってはいないだろうか。

 

せっかく自我が確立されて、自分の頭で考えられるようになったのだ。

誰かが掲げた理想や価値観に従属して窮屈に生きるよりも、私はもっと自分のことを大切にしたい。そんな重苦しい鎧はさっさと脱ぎ捨てたいのだ。

 

そういう思いが、今の私の中にはある。それを思い出させてくれるが「マニキュアを塗る」という行為であり、私にとってはこれが、自分にかかった呪いを解く「シャナク」という呪文を唱えることに近い、儀式のひとつなのである。 

 

シャナク」とは

ドラゴンクエストシリーズⅢとⅤに登場する呪文。

IIIでは呪われた装備を破壊して外すことができ、Vではステータス異常としての呪いを解くことが出来る。

 

*1:化学実験における異物混入や汚染を指す言葉。

*2:もちろんマニキュアの存在のせいで重大な影響が出てしまう実験をする人が周囲にいたら、すぐに落とします。