箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

なぜ私は石を配るのか

X(旧Twitter)を使い始めて久しいが、一昨年末あたりから、私はとある理由によりプレゼントキャンペーンを自主的におこなっている。

プレゼントするものは、X(旧Twitter)を見てくださっている方々とってはお馴染みかもしれない、天然石、である。そして、プレゼントする対象は、日本在住のキッズたち、である。

 

SNSを用いた「プレゼントキャンペーン」とは、私の観測できる範囲で話すとするならば、企業等がフォロワー数を増やしたり、自身の生産物を宣伝したり、物品への購買意欲を膨らませるために割引したりするためにおこなっていることが多い(気がしている)。

ところが私はただの準公務員。自社製品があるわけでもなければ、宣伝したいことも特にない。そんな中、なぜ私財を投げ打ってまで私がこんなことをしているのか?一見とち狂ったこの行動について、今の心情を記録に残しておこうと思う。

子供の頃の憧れ、大人になって感じた格差

小さい頃の私といえば、広告に挟まっていたジュエリーの写真を切り取ってノートに貼ったり、砂場でキラキラする砂礫を集めたりなどしていた。小学生の頃、山梨旅行で宝石の研磨工場で手に入れたローズクォーツのカケラが宝物だった。おじが収集している石をたま〜に見せてもらって、博物館みたいで楽しかった。当時の「好き」に対する気持ちは、私にとっての大きな原動力だった。地球科学を学びたくて、大学は理学部へ進学した。地球への興味は、齢30を超えてもなおしっかりと続いている。

大人になり、お金というパワーを手に入れた。趣味を楽しめるようになった。ある日、初めてルースを手にした。きっかけはプレキャンだった。そこから石の販売会やミネラルショーに赴くようになった。自分で働いたお金で好きなものを購入して、好きなものに囲まれて過ごすことはとても幸せで、以降私の趣味はどんどん充実していった。

そんな中で、ある日ふと気付いたことがあった。

それは「ミネラルショーにいるキッズの多さ」だった。

彼らは、自分のおこづかいやお年玉を持ってきて、限られた予算の中で、自分の目で選んだ「とっておき」をお迎えするのだと、とある石屋さんの店員さんが教えてくれた。500円玉を握りしめてプチプラコーナーから厳選する子もいれば、大人も即決を躊躇うような、数万円を超えるようなものを購入していく子もいるらしい。すごい話だ。

私はそんなキッズ達を見て、微笑ましく思うと同時に、とても羨ましく思った。

 

うらやましさに内在するもの

ところで「キッズ」という存在がこのような場に来るためには、一般的には、かなり大きめのハードルを複数越えなくてはならない。

 

1.会場との地理的距離

田舎に生まれしキッズと、都市部に生まれしキッズとでは、会場へのアクセスへの難易度がケタ違いである。いくら石のことが好きでも、大型連休中に開催していたとしても、田舎居住者は、会場に行くためだけに県境を越えたそれなりの大旅行計画を立てなくてはならない。

また、田舎の民が得られる情報と、都市部の民が受け取れる情報には、雲泥の差がある。田舎にいながら情報を得ようとすると、伝達速度は遅いし、密度も薄い。今でこそ、情報を能動的に探すインターネット等の手段が与えられているものの、それを自分の意思で任意のタイミングで使える大人とは異なり、こどもにはその手段がない。このようなイベントがあるということすら知らないまま、大人になることだってあるのだ。少なくとも私は、25歳になるまでその存在を知らなかった。

 

2.保護者の理解とサポート

私(たち)が愛して止まない石だが、興味がない人からしたら、どれもこれも「ただの石」である。当たり前のことだが、自分と家族との間で必ずしも感性が近いわけではない。自分がどれだけ好きでも「周りに理解してもらえない」という状況は、頻繁に起こり得る話なのだ。

そんな中で、わざわざキッズをミネショに連れて行ってくれるような保護者は、稀有な存在といえるだろう。ミネショに連れて行く動機は、自分が石好きだからという理由もあるかもしれないが、彼らには総じて「こどもの『好き』という気持ち」を応援しようという意思が存在するはずなのである。そしてその上で、彼らはキッズの引率をできるような「心の余裕」と「時間の余裕」との双方を持ち合わせていると考えられる。できた大人達である。

 

3.金銭的余裕

石の趣味を育てるには、それなりの金銭的余裕も必要だ。ましてや「入手したい」となれば、なおさらだで。石は、図鑑を見ているだけでも十分に楽しいが、『好き』が募れば募るほど、そのうち「実物」を見たくなるものである。

実物を見るためには「どこかに見に行く」か「自分で入手する」しか、方法はない。どこかに行くにしろ、入手するにしろ、自分の家庭に金銭的な余裕がなければ、そして上記2点の条件をクリアできなければ、その機会を得ることは困難なのだ。

 

これらの3つの要素を全て満たしている家庭って、実はそんなに多くない、と、田舎出身かつ、貧困家庭育ちの私は思う*1

しかし、私は大人になった。保護者とは独立した存在として、自分の力で好きなものを手に入れることができるようになった。

それでもまだ「もし私が小さかった時に『実物』を、自分の目でじっくり観察できていたなら」「当時の『好き』の気持ちを、その時の情熱を灯した温度感の中で育てられていたなら」と、思わずにはいられない瞬間が、少なからず私にはあるのだ。

そしてきっと、今日も日本のどこかに、かつての私のように「好き」を募らせているキッズがいるはずなのだ。

 

***

実は上で述べたような「格差」は、学校教育が直面する問題に類似性がある。地方-都市部の格差、家庭の所得格差、周囲の学問への理解(インセンティブディバイド)。私は日頃からそんなことばかり考えているので、類似性を見つけた時にはもう「何か解決策はないか?」と、半ば自動的に脳は考えはじめていたような気がする。

でも私には、田舎在住キッズたちの家を移動することはできないし、キッズの保護者たちの所得を増やすこともできない。たとえできたとしても、自分ではない誰かに「自主的に興味を持ってもらう」ことを強制できないし、実現できるわけもないのだ。

 

でも。そうだとしても。好きなものに対する理解と、その「好き」を応援をすることなら、私にもできるのではないか?

できれば、当時の私のようなキッズが喜ぶような方法で。

そこで思いついたのが、プレキャンだったのだ。

 

「好き」を育てて欲しいという祈り

幸運にも私は、小さい頃から好きだったものに関係する仕事に就いている。

それができたのは「大学で地球科学を学びたい」と、高校生のうちに決めることができたからである。高校の時にその気持ちに気付けたのは、高校で山岳部に入って、いろいろな地形・植生・景色を見られたからこそだし、そもそも小学生の頃から、山や自然が好きだったからである。そして、その好きの源流には、石が好きだった自分がいるのだ。そしてそれを、見守ってくれた存在がいたのだ。

それを思うと「好き」や「知りたい」という気持ちは、育てれば育てるほど、持続性をともなう凄まじい原動力として昇華していくのではないか。

もし、そうであるとするならば。

今の私ができることは「自然が好きなキッズたちに、その『好き』を応援するための行動を取ること」であると、思い至ったのである。

 

ただ、このように銘打ってはじめたものの、私は別に、彼ら全員に地球科学や自然科学の道に進んで欲しいと思っているわけではない(進んでくれたらもちろん嬉しいけどね)。私個人としては「好き」という気持ちは、揺らいでもいいし、深まってもいいし、発散してもいいし、収束したっていいものだと思っている。

それでも、現キッズたちには、成長過程のその時々で「好きなもの」をたくさん見つけていって欲しいし、君たちが思っている以上に「君が好きなものを同じように好いている人々(仲間)」が世界中にたくさんいるということ、そして、その「好き」を応援してくれる人がいることを知っていて欲しい。そして、その『好き』な気持ちを原動力に、楽しく豊かな人生を送っていって欲しいというのが、私の願いなのです。

 

稚拙な文章となりましたが、以上が、私がキッズ向けプレキャンを開催するに至った理由でした。お読みいただきありがとうございました。

*1:親、見てたらごめんね。でも、やっぱり私が生きてきた時代は、生まれた時から今までずっと不景気で、自営業である我が家はやっぱり裕福ではなかったと思うんだ。それでも、私の「好き」をずっと尊重してくれて、節目節目での選択を尊重してくれてありがとうね。感謝しているよ