箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

歳を重ねること

自分の意見を変えること、あるいは自分の意見・価値観の「負の面」を認識することにものすごい抵抗感を示す人がいる一方で、価値観をアップデートしていくことに比較的抵抗が少ない、あるいは、相反する価値観、価値観の中の「正と負の両面」が脳内で共存することを許容できる種族の人間が一定数いる。

どちらかというと私は後者の方をかっこいいんじゃないかなと思っているし、仮にもサイエンティストだし後者でありたいなあと思っている。

でも、この間「認知症になると母国語しかしゃべれなくなるから国際結婚や海外移住すると大変」みたいな言葉(多分これかな?)を目にして、ちょっと怖くなってしまったんだよね。

 

私たちは、言語を含めて、生まれ育った環境に、良くも悪くも強く影響を受けながら価値観を構築していて、その中には「悪意無き偏見」みたいなものもたくさんあって。

そんな中で、母国語ではない新しい言語だったり、刷り込みではない新しい価値観や思想だったりっていうのは、当人の努力によって会得できうる「大きな財産」であると、私は思っているのね。

 

今まではさ、年齢を重ねることによる焦りって、結婚とか出産(たとえば高齢出産はリスクがあるよ、とか)みたいなこと、あるいは、顔のシミ・シワ・たるみくらいしかなかったのに(最悪そのくらい金で解決できるからいいだろ)って思ってたの。

でも、先の言葉を見かけてから、

私も歳を取ったら、いずれ頭が働かなくなって、今まで一生懸命学んで、知って、アップデートしてきた色々なことが、どんどんハラハラと抜け落ちていってしまって、偏見にまみれたババアになって、知らぬ間に誰かを傷付けて、指摘されても素直に受け取ることができなくて、そこからはもう誰も指摘してくれなくて、孤独に死んでいくのかな・・・

なんて、そんな未来が訪れてしまうのではないかと思えてしまって、私は怖くなってしまう。真剣に考え出してしまえば、夜も眠れなくなってしまう。

繊細かよ?って感じだけど、だって、普通に怖くない?

自分を構成するアイデンティティが失われるって、自分の足下がいきなり崩れてなくなってしまうみたいで、想像するだけで怖くて、立てなくなってしまう。

 

みんなもそういう風に感じることってあるの?

 

ちなみに、この「悪意無き偏見」というものの存在を、私は、3年前くらいにディズニーの「ズートピア」という作品を見て、この感想を読んで、ようやく学んだばかりなんですよね。どういうことなのか気になる人は、以下リンクからどうぞ(個人的にはてブロ内でかなり好きな記事です)。

shousha-ol.hatenadiary.jp

悪意ある偏見はすぐにでも是正されて欲しいけど、「悪意無き偏見」は、自分では気が付けないからこそ、是正するのが難しく、だからこそ(ジュディのように)悪意無く、容易に、他人を傷付けてしまうのです。

自身に内在する偏見って、自分から理解しようとしない限り、つまり、偏見を持たぬよう、物事を公平に見ようとする、そういう姿勢を貫き続けないと、見つけられないと思うんですよね。

「自分は偏見なんてないぞ!」と思っている人にこそ、見て欲しい映画だな〜と思います、ズートピアは。こう、心臓がキュッとなって、学びが深いというか、自分を見つめ直すのにとても良いです。