箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学助教によるいろいろなメモ書き

これからの生存戦略を考える #2 研究者として生き残るには

「これからの生存戦略を考える」シリーズでは、世知辛え〜!と思う機会が多い気がするこの世の中で、日々感じているストレスや、もんにょりとした不安な気持ちを抱えながらも、どうやって折り合いを付けて生きていくのがよいかということを、私や、私に部分的に共感している人(あるいは全く共感できない人も巻き込ん)で考えていくという試みをしたい。まあ、レスポンスがなければ、超なげ〜独り言になってしまう可能性もあるんだけど。

 

GeneralistとSpecialist

「ジェネラリスト」と「スペシャリスト」。社会一般的には、ジェネラリストは総合職、スペシャリストは専門職を指すことが多いらしい。ちなみに生態学での例を出すと、「ジェネラリスト」は幅広くいろいろなご飯を食べる生物を、「スペシャリスト」は特定のご飯を食べる生物を指すことが多い。ご飯以外にも、地理的な条件(生息可能な範囲)や、物理・化学的な条件(温度条件、光条件、pHほか)など、あらゆる対象において、比較的適応力が高く臨機応変に生きていくことができるものをジェネラリスト、特定の条件を好みその条件になった途端に爆発的に力を発揮(生息領域を増やせる)ものをスペシャリストと呼ぶ。

 

研究業界はスペシャリスト集団か?

ある学問分野にめちゃめちゃ詳しくなった人:オタクが、オタクであることを武器にして戦える職業、それが研究者である・・・と、少なくとも私は思っている。研究職に就くような人間は、広義の分類としてはスペシャリストに分類されるのだろう。

しかし、研究者として働き始めて3年半、研究者の中にも属性があるように見えてきた。例えば、自分の知的好奇心の赴くままに、よく学びよく実験などもするいわゆる天性型、知的好奇心は人並みだが課題解決やそのプロセスが人より得意であるがゆえ研究ができてしまう特技特化型、いろいろと自分に課題はあるが「好き」という気持ちを大切にして自分の成長に貪欲な努力型、などがある。また他の視点から見ると、リーダーシップがありプロジェクトをマネジメントできるタイプ or マネジメントは苦手だが1をお願いされたら10までできてしまうタイプ。自分が研究できていれば満足できるタイプ or 論文などで成果を出さないと満足できないタイプ。それから、自分のリソースを研究に全振りしているタイプ or 事務作業なども難なくこなせるオールラウンダータイプ。研究者であるという事実に使命感を抱くタイプ抱かないタイプ、その「使命感」をポジティブにモチベーションにするタイプ or ネガティブにプレッシャーと受け取ってしまうタイプ・・・など、いろいろな人がいる気がしている。

みんながどれかの属性に必ずしも分類されるわけではない(おそらくは、グラデーションみたいになってる)と思うのだけど、自分が「研究者として生き残る」ことを願うなら、自分がどういうタイプなのかを客観的に理解しておくことは、#生存戦略 を考える上では重要なのではないかという気がしている。

 

コラム:「楽しい」に感じる違和感

私はサイエンスが好きだし、研究というプロセスが好きだ。・・・多分。「多分」という保険をかけてしまうのは、私がある種の劣等コンプレックスを抱いているからだ。何に対するコンプレックスかというと「楽しんで研究している人たち」である。

もちろん、今の仕事は「楽しい」。もしもこの仕事を通して「楽しさ」を微塵も感じていなかったら、とっくにやめているだろう。でも、思うに自分の属性(特質)は、前述したような要素を組み合わせて言うならば、特技特化型と努力型の中間あたりにいる気がするし、リソースを研究に全振りできないし、事務作業なんて死ぬほど苦手である(得意かもしれないな〜と思えるのは、文章を書くことと、プレゼンすることくらいである)。

そんな私にとって最も眩しく、そして羨ましく思えるのは「勉強も実験も、楽しくて仕方ない!」という雰囲気を纏って研究している人たちの存在である。もちろん、彼らには私にはわからない何らかの感情や思いがあるのかも知れないけれど・・・私自身は「彼らのような人々には、一生適うことないんだろうな〜」と思ってしまうのである。

私は割と頻繁に「この先10年はどんなテーマで研究やっていこうかな」とか「生き残るには貢献度の高い研究をしていかないと」という思考とか「自分のサイエンスって何だろう」という問いについて毎日ウンウン悩んでいるんだけど。多分、多分ですよ?そんな私(のような属性を持つ人間)が言う「サイエンス/研究は楽しい!」という言葉と、「彼ら」が言う「サイエンス/研究は楽しい!」という言葉では「楽しさ」の純度が違う気がするのだ。私は高校生だった当時に、研究のことを楽しそうに話す大人たちを見て「こんな職業就いてみたいな〜!」という気持ちで研究者の道を志した経緯がある。でも、当時憧れていたような存在に、自分はなれていないな〜と、このままでいいんだろうか?ということを思い悩んでしまうことがある。

 

凡人でも研究者として生き残る方法(仮)

研究してて楽しいこともあるのだが、ほぼ毎日、1回くらいは「私この仕事向いてねえのでは?凡人かつ非力!」と落ち込むので、しばしば「転職」の二文字が脳裏を過ぎらないこともない。が、ひとまずは「研究者として生き残っていく」ことを前提で考えてみる。

もし、研究者(あるいは科学者)としての使命が「サイエンスを進歩させること」であるとするならば、研究者として(自分だけが)生き残ることを考えるよりもむしろ、コミュニティとして生き残っていくことを考える方が、生存戦略を練る上では重要な気がしている。そう思う根拠としては、人は誰しも「得手不得手」がある、という点だ。

少なくとも自然科学研究を進めていくには、観察から始まり、アイデアや仮説の創出、それを検証するための技術力、その結果から考察・議論する力、それらを総括しまとめあげる力など、様々な知識・能力と、プロセスと、時間が求められる。これらを「たった一人」でやっていける人がいたならば、おそらく、彼/彼女は、どんな環境に身を置くことになったとしても「研究者」としてそれなりに生きていけるだろう。そして、多くの人がイメージする(あるいは目指そうとしている「自立した研究者像」)、広義の意味でのスペシャリストとは、おそらくこういう人を指すのだろう。しかし、生態学的な概念で言えば、このような、環境の変化にも強かに順応して生き残っていくことができる存在こそが「ジェネラリスト」である。こういう強さ、目指せるものなら目指してみたいものだが、少なくとも私は凡人なので難しいように感じているし、そんな全てを一人でこなせる人なんて、実際にはそんな数存在しないように思われる(私が未だ会っていないだけ?)。

となると、私の戦略としては「コミュニティ(チーム)の中で価値交換しうる相手」としての地位を築くことが、現状で考え得る唯一解なのである。コミュニティの中にいれば、お互いの不得手を補い合うことができるし、リスク(例えば、研究が迷走していく、独り善がりっぽくなる)を避けられる可能性が増える。それぞれの強みを活かした「生態学スペシャリスト集団」の一員でいることができたならば、ひとりの「生態学的ジェネラリスト」よりも(研究を進める上では)大きな推進力を維持できるような気がするのだ。

一方、この「生態学スペシャリスト集団」を維持するためには、大きな労力(コスト)がかかることも忘れてはならない。それは

  • 価値交換したいと思われるような自分の強みを確立する必要がある
  • 助けてもらう以上「助ける」ことが常に求められる

ということである。個人的には「一方的に助けてもらえるのは学生まで」で、学位取得後は「学位保持者」として、科学者として対等に接されるし、そういう視点で評価されるようになる気がしている。学生時代は過ぎ去ってしまったので無理だとしても、せめてポスドクである期間(卒業後何年間かの間)に、ある程度は「○○といえば誰々さん」状態になっている必要がある気がするし、それを「これが私の強みである!」と自負できる心の強さが必要である。また、コミュニティの一員となる以上は、自分のペースだけで研究することは難しく、誰かに助けを求められたら進んで手を差し伸べられるような心と時間の余裕も必要となる*1。書いていて「そんなの難しくね?」とも思うのだが、全てを満遍なくできるジェネラリストになる方が私には困難なので、こういう方向性で生きていくしかないのだろうな・・・という気がしている。

また、これと併せて、自分自身がどんなコミュニティに属したいのか?というのも、考えなくてはならない重要な点だ。多くの若手研究者は、学生時代に所属していたボスのコミュニティになんとなく属して研究を続けることが多いような気がするが、研究者人生30年を見据えたときに、ほんとうにそこが自分にとって「良い」場所なのか?ということは、自分自身がやりたい研究テーマと、自分自身にできることのバランスを考えつつ、検討しておく余地があるだろう。

 

あとがき

仕事だろうとプライベートだろうと、ほんとうは「生存戦略」などということなんて考える機会もないまま、のほほんと生きていたかった。未だに憧れが潰えない「おだやかでていねいな暮らし」をかかげられるような、朝はじっくり時間をかけていれたコーヒーとバタートーストをたしなむような、午後は家庭菜園の手入れをして、そこで取ったハーブティーをたしなむような、摘み取った野いちごでジャムをつくるような、取り込んだばかりのふかふかのおふとんの上でネコとうっかりお昼寝するような、夜は星空を見上げてため息が漏れ出るような、つめたい頬に触れた手のぬくもりに安堵するような、季節の移り変わりを空の高さとにおいで感じ取れるような、そういうふとした瞬間に幸福を感じられるような、そういう人生でありたかった。しかし現時点では、全然そういうことにはなっていない。私はどこかで何かを間違えてしまったんだろうか。それとも、ずっと抱いていた(あるいは誰かに抱かされていた)幻想が、あまりにも現実離れしすぎていたのだろうか、それに私が若すぎて気付けなかっただけなのだろうか。それとも、日本社会の現実が、私のような人間が願う「日常の小さな幸福たち」を、置き去りにしてしまったのだろうか。

 

幸か不幸か、私は実家が自営業だったので、安定した雇用形態とか、年功序列で給料が増えていくとか、働けば働くほど賞与があるとか、そういう感覚が全く無い。むしろ、両親ががむしゃらに働いている姿を見てきたはずなのに、あえてこの不安定な職業に就いている自分に「頭おかしくない?」と思うことがしばしばある。でも、そもそも今の日本に(というか世界全体を見ても)安定して働ける場所がないという認識が根底にあって、だからこそ「(たとえ茨の道だったとしても)せめて好きなことをして働きたい」という思いが強いのかもしれない。だから、コーヒーもハーブティーも飲めないこの道を選んでしまったのかもしれない。

「好きなことをして生きていく」価値観が、必ずしも全員にとって正しいとは全く思わない。けど、生きていくために「お金を得る手段として何を選ぶか」というのは、各々の決断に委ねられているわけで。そんな中で、人より要領が悪く馬力もない私は、おだやかでていねいなイメージとはかけ離れたところで、小賢しく生きる手段を模索するより他ないのである。でも、小賢しく生き残った末に、コーヒーもハーブティーも飲めるようになれたのなら、それは結構幸せな人生と言えるのかもしれない。そう思うと、まだまだ諦めたくないなっていう感じがしてくる。どうやって生きていこうかな〜。

人生はまだまだ続く。

 

過去の連載はこちら 

tkzwy.hateblo.jp

 

*1:今のところ、これらのうち何ひとつ条件を満たせていないので焦るわけなんですけど。