箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

博士課程に進学するか悩んでいる人へ

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2020年も残すところあと3ヶ月となってしまいましたね。早くない?なんだか3月くらいから記憶があんまりないんだけど。

まあそんな話はいいとして、この記事は「博士課程に進学しようかどうか悩んでいる」という人たちに捧げるために書きます。・・・と、言いつつも、ひょっとしたら、私が当時の「悩んでいた頃の自分」に語りかけてあげたい内容のかもしれない。けど、もしも私と同じように悩んでいる人がいたとして、そんな誰かの、何らかの参考になれば良いなと思って、書いてみます。

 

正しく悩むために・・・

博士課程に進学しようかどうか迷っている人に投げつけられがちな、最も安易で暴力的な回答として「悩むぐらいなら進学しない方が良い」というものがあります。でも、全くそんなことはないと私は思います。むしろ「入る前にちゃんと考えておいた方がいいんじゃないの?」と思うこともたくさんあるので、ここは安心して、しっかりと悩みましょう。

確かにね、彼らの言うことも一理、あるんです。でもそれは、進学する目的が曖昧なまま、なんとなく進学してしまうと「失うもの」があまりにも大きい、という考え方に基づく場合のみだと私は思います。失うものとは、具体的には「時間」と「お金」です。特に、若いうちは実感しにくいかも知れませんが、自分の人生ために、自分の時間を投資できる時間(現役ならば20代後半〜30代前半という年代)は、人生の中でも本当に貴重だからです。そういう視点での発言ならば、私も同意できます。

とはいえ「悩むくらいならやめちまえ」っていう根性試しみたいな言葉は、アドバイスにも何にもなってないですよね。そんなことで「じゃあ進学やめよ」ってなるくらいなら、最初から悩んでないし相談もしないと思うんだよね。そういうのをクソバイスっていうんじゃないのかな(超早口)(何か思い出した)

そんなわけで、私はクソバイスなんてしたくない。だからこそ、悩んでいる後輩(広義の意味で)がいた時に、何か伝えておきたいことはないかな、決断する前に一度考えておいたほうが良いことってないだろうか、提案できることはないか、ということを、めちゃめちゃ真剣に考えましたので、今日はそれについて紹介します。

 

1.博士号という学位が自分の中でどのような位置付けにあるのか

早速ですが、これが一番重要だと思います。「博士課程」や「博士課程学生としての生活」あるいは「博士号という学位」は、あなたの中でどのような位置づけにあるものでしょうか。どこに価値を見出しているのでしょうか。この問いに対して、あなたは答えられる何かを持っていますか?

持っているのなら何の問題もありません。が、うまく答えられない人、考えたこともない人は、少し考えてみてください。

 

私と私の周囲の人々の発言・経験に基づいて述べるならば、博士課程に進学する人が全員、最初から研究者になることを志しているわけではありません。実際に私の周辺で「どんなモチベーションで進学した人がいるか?」というのを紹介してみると、

  • 研究者になりたくて、博士号取得はその通過点にすぎない、という人
  • 勉強や研究が好きで、その「好き」を貫いたらこうなっていた、という人
  • 資格としての「博士号」が必要だから、という人
  • 資格としての「博士号」を取得したいから、という人
  • 学生の間は、好きなことを思いきり、悔いなくやりたい(その後はどこかに就職する)という人
  • 研究は好きだし、研究者という職業に就きたいが適性があるかどうかわからないので、期限を設けて可能な限り挑戦するけど無理そうなら諦めて違う職を探す、という人

といった感じで、割と多様性があります。ちなみに私は、今も昔も、一番下のような認識で生きています。私のほかにも知り合いに複数名、こういう人がいますね。

何が言いたいのかというと、つまるところ、自分の中で「学位の意味・意義」「進学する目的」が見えてさえいれば、博士課程学生として過ごす人生の中の数年間に対して、あなたがそれをどのように位置づけていても、何の問題もない(そもそも正解がない)わけです。しかし翻ると、この「目的や理由」に相当する部分を、問う機会がないまま進学することは、このご時世ではあまりにも丸腰過ぎますし、その部分を曖昧にしたり目をそらしたりするための手段が「進学」なのならば、私個人としては、背中を押しづらいな、と感じてしまいます。

もちろんこれは各々の選択なので、正解・不正解で片付けられる話ではありませんし、私の考えが全てとも、思っていません。ならばなぜ、私がこの項目を「最も重要」として掲げたかというと、自分の中で「進学する目的や理由」を明らかにしておくことの本質的な価値が、研究や人生に悩んで、進む先がわからなくなってしまった時に、進学する前に考えていた行動指針が、あなた自身の道しるべになりうる、という点にあると思うからです。

 

2.その研究室はちゃんと教育を重視(あるいは投資)しているか

道しるべが定まったところで、ここからは、実際に研究室を選ぶ時に参考になる(かもしれない)情報を述べていきます。

世の中には、学生の学びを助けるためにあらゆる手(もちろん合法的な)を尽くしてくれる徳の高い教員もいれば、学生を労働力として搾取してくるような、教育者の風上にも置けないようなモラ気質の人もいます。搾取されうる具体的な対象は、主に「学生として過ごす貴重な時間・体力」と「限られた時間の中で出した成果」です。

それぞれの教員がどんな方針をとっていようと、直接私には関係ないですが、所属する学生には関係大ありですよね。私は、どんな後輩達にも、あらゆる搾取の被害に合ってほしくないですし、学生として過ごせる限られた時間は「自身のための学びの時間・研究の時間」として、自分のために使って欲しいです。なので、そういう環境を得るためには、一体どういうことをすればよいのか?ということを話します。

 

OB・OG、現役の先輩に、教育体制について話を聞こう

まずは、教育・指導体制をきちんと確認しましょう。どんな研究をしている場所なのか・・・というのはとうに調べていると思いますが、例えばゼミの内容や頻度、コアタイムなどはもちろんのこと、大講座制なのか小講座制なのか、ラボとして研究費をどれくらい獲得しているのか*1、そのうち学生の教育のためにはどのくらいお金を割いているのか*2、論文執筆指導やプレゼン指導の体制はどのようになっているのか・・・など、知っておいて損は無いことはたくさんあります。なのですが、このような細かな情報は、ホームページなどでもオープンになっていないことが多いです。あえて隠しているのか、気にも留めていないのか、わかりませんが。。。

前述したように、教員にもいろいろなタイプの人間がいます。というかそもそも、研究者の適性と教育者の適性は、必ずしも一致しないという前提もありますし、どのように教員の資質を判断するのが良いのか・・・という問いに答えるのは、非常に難しいです。また、究極的なことを言えば「教員と学生の相性次第では?」という部分も少なからずあります。

それでも、博士課程での貴重な数年間を、少しでも有意義に、実りあるものとしたいならば、

  1. 進学を考えている研究室の教員と、可能な限り直接話せる機会を作る。難しければWebミーティングでもよいので、必ず話すこと。そして
  2. ボス視点ではない「実際のラボの雰囲気」がどのようなものなのかを知ること

が、大切だと思います。特に2が重要だと私は認識しています。なぜならば、自分から見えている教員の印象と、研究室内での教員の実際の印象・雰囲気が異なる・・・ということは、往々にしてありますし、教員自身が認識している自分の研究室の雰囲気と、所属している(いた)人が感じる研究室の雰囲気は、必ずしも一致しないからです。その齟齬を埋めるために、実際に所属している(いた)人々に話を聞く、というのは非常に効果的な手段であると私は思っています。尋ねた先輩やOB・OGの中に良心的な人がいたならば、良い面も悪い面も、真摯に答えてくれると思います。

 

「師が見ているものを見る」という視点

これは特に「研究者を志す(可能性がある)人」に意識してみて欲しい点です。

私が、学部生の頃あたりに知った言葉で「師を見るな、師が見ているものを見よ」というものがあります。ブログでまとめてくださった方がいるので、該当箇所をすこしばかり引用します(著作権的にダメかな?後で消すかも知れません)。

技芸の伝承に際しては、「師を見るな、師が見ているものを見よ」ということが言われます。弟子が「師を見ている」限り、弟子の視座は「いまの自分」の位置を動きません。「いまの自分」を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下がるにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。) それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、「師の視線」、「師の欲望」、「師の感動」に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて「実現しようとしていた当のもの」をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心像を受け渡せたなら、「いまの自分」から見てどれほど異他的なものであろうと、「原初の経験」は汚されることなく時代を生き抜くはずです。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』 - あとあとのためのメモ集

本文中の「視線」「欲望」「感動」という言葉を、私は研究をする上では以下のように解釈しています。それは、指導教員となる先生が、「当該分野の中で、何に(物質や実体だけではなく、どのような論理的なほころびに)着眼し、どのような視点・策を持って解き明かそうとしているのか」という「思考プロセスの組み立て方」や「そのプロセスによって解き明かそうとしている命題を知ること」の方が、「師のやっている研究そのものを真似て習得すること」よりも重要である、ということです。

今、進学先として選ぼうとしている教員は、何を見ていそうですか?

おそらくですが、この「師が見ているもの」にあなたが共感できるならば、 あなたと師の関係性は、志を共にするものとして、在学中も、また卒業後も良好に保ちやすい可能性が高いのではないかと思われます。もちろん「共感できないと絶対にダメ!」という話ではないのですが、師が見ているものは何なんだ?という部分にも着目することで、進学前のみならず、入学後も「あ〜、こういう考え方は自分も取り入れたいな〜!」と思えたり、逆に「この人のこういう部分は‘人の振り見てわが振り直せ’だな〜」と思えたりなど、多くの気づきを得られて、学びが多くなると思います。ぜひ気に留めてみてほしいです。

 

3.お金(学費や生活費)をどのように工面するか

研究室選びの方向性も掴めたところで、ここで最も現実的かつ深刻な問題についてお話します。以前も話しましたが、日本の博士課程学生は「個人の金銭的な負担」が、かなり大きいとされています。実際に、進学するかどうかで悩んでいる人の多くも、ここに問題を抱えているように思えますし、私自身も最後までネックだったのはこの部分です。

tkzwy.hateblo.jp

上の記事はかなり頑張って書いた(し、割と本質を突いている?と個人的には思っている)(自画自賛)ので、ぜひ合わせて読んでみて欲しいところです。

日本の博士課程の学生が生活費を得る手段は、大きく分けて以下の4つが考えられる。学生がどの手段を用いるべきか、その最適解は当該学生をとりまく環境によって様々であるが、それぞれの手段に、それぞれ留意すべきポイントがあることを、気にとめておく必要があるだろう。

  1. 親からのサポート(仕送り)
  2. 国・民間からのサポート(学振や給付奨学金
  3. 国・民間からのサポート(貸与、すなわち借金)
  4. 労働(給与)
日本の博士学生は本当に不幸なのか?〜お金について考える〜 - 箸はともかく棒にはひっかかりたい

詳しいことは上の記事に書いたので大幅に端折りますが、どの選択肢にも、良い面・悪い面が絶対にあります。ですが、みなさんが取り得る選択肢として私が個人的に推したいのは、学生の金銭的負担が少なくすむであろう

  • 博士課程入学前に死ぬ気で論文を執筆し、学振のDC1またはDC2を狙う
  • (それが難しければ)奨学金を借り、バリバリに頑張って、成績優秀者として返還を免除してもらう

です。どちらも博打といえば博打ですが、申請前に確率を挙げられる手段があるという点、そして在学中の精神的負担を考えるならば、学振DCゲットを目論んで、抜かりない準備をする、というのが一番良いと思います。

ちなみに、申請書の類いは、執筆に時間をかければかけるほど文章が洗練されていくため、動き出すならば、善は急げだと私は思います*3。出さなければ当たることもないので、ぜひ積極的に挑戦して欲しいです。

また書き方については、指南書があったりネット上に情報が掲載されていることもありますが、あくまでそれは他人の成功例です。実際に自分の研究内容が書かれた申請書をブラッシュアップするためには、なりふり構わず、指導教員はもちろんのこと、周りの人々(学振DCや学振PDあるいは科研費の獲得経験のある人々)に見ていただく、というのが良いと思います。

 

まとめ:ちゃんと納得できるまで考えよう

以上が、今現在、進学するかどうか悩んでいる方に「考えてみて欲しいこと」でした。なんとなく、悩みのタネを更に増やしてしまったような気もしなくはないですが、後悔の少ない選択をするためにには、考えておいたらいいんじゃないかなと、私自身は思っておりますよ。

でも、あなたが「決断」する前に、私から最後にひとつだけ、伝えておきたいことがあります。それは、進学するもしないも、あるいはこの先どのような道を選ぶとしても「自分が選択したのだ」と心から納得できるまで、しっかり考え抜いて欲しいということです。

人間、どんな道を選ぼうと、隣の芝は青く見えるもので、誰かや何かと比較しては「ああしていればよかったかも」「こうしていればよかったのかな」と、なんだかんだ後悔してしまう瞬間が必ずあります。なのですが、自分の人生の選択を「自分以外の何か」に委ねてしまうと、将来自分に余裕がなくなった時に、その「自分以外の何か」を、恨んでしまいかねません。誰かや何かを恨み続ける人生は、多分とても疲れてしまうと思います。

だとするならば、その「後悔」をできるだけ少なくするためにも、誰かや環境を言い訳に、考えることを放棄しないで欲しいです。誰かや何かのために、不本意な選択をしないで欲しいです。自分が納得できるまで、じっくり考え抜いて欲しいです。

その上で「自分でちゃんと決めました」と自信を持って言える決断をされたのなら、それがどのような選択だったとしても、私はあなたの選択を尊重しますし、これからのあなたの人生を応援させていただきたいです。

「それでもやっぱり難しい!決められないよ!」と感じている方は、まずは、自分の中で何に引っかかっているのか、一度問い直してみるのが良いかも知れません。また「周りに話せる人がいないから、一緒に考えて欲しい!」という人がもしいるならば、こっそりと連絡くださいね。私の力が及ぶ範囲でならば、お話をうかがうこともできます。

 

お互い、納得のいく人生を歩めると良いですね。

ではまた!

 

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

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*1:ちなみに「大型研究費を獲っているからといって、学生の指導も行き届いているとは限らない」ので、そのあたりは十分に見極めてください。指導教員が忙殺されている状態の場合、期待している学びを得にくい可能性があります。

*2:博士課程学生はお金がかかります。フィールド調査や実験はもちろん、学会参加や、論文執筆を十分に達成できる環境なのかどうか、知っておいて損は無いと思います。

*3:私の知り合いでは、DC1を取るためにM1の12月から準備したという人がいます。DC1の申請時期はM2の5月なので、半年くらい準備したということです。ちゃんと通ってましたね。すごいです。