箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

これからの生存戦略を考える #1

生物種としての生存戦略

私が「生存戦略」という言葉を理解したのは、大学2年の火曜午前中あたりに受けていた生態学の講義だ。いわゆる「r-K戦略説*1」というものである。この理論に生物が種として存続していくために選択してきた結果が集約されているとか思うと、その壮大な時間スケールと関わってきた命の数に思いを馳せずにはいられなかった。

生物が営んできた壮大な歴史の中の一員である私は、この用語を学んでいた当時「へ〜、ほ乳類の多くはK選択をしているわけか。確かに、無駄死にが減るし、効率も良いもんね。納得納得〜」と思っていた。だからなのか「自分がこの先どうやって生きていくべきか」なんてことは考えることもなかったし、今までと同じようにこれからも先人達の模倣をすることで、連綿たる人類の歴史の最先端を紡ぎ、後世にそれを受け継いでいけるんだろうなあと、信じていたんです。ここ数年前までは。

 

現代社会に生きる人間としての生存戦略

私は、ヒトという生物種、そしてその生物が作り出した社会性がこんなにも複雑だということを知らなかった。具体的な例を上げるなら、かつての私は「自分の人生は自分で決めることが出来るはずだ」と思っていたし、自分で導き出した考え方は正しいと思っていたし、たとえ何か納得のいかないことが起きたとしても、一生懸命みんなで策を考えればその問題は必ず解決(あるいは改善)されると、心の底から信じていた。

でも、実際は全然そうじゃなかった。何か大きな決断をするときも「自分の意思だけでは決められない」なんてことはたくさんある。自分には予想することもできないような視点や思想を持つ人間が、世の中には数多く存在することも知った。何かを話し合う場においても、たとえ自分が本音を話していても、相手も本音を話してくれるとは限らないことも知った。お互いに「共通の目標」があったとしても、協力プレーを続けていくのはとても難しい(相当の努力と思いやりなどが必要)ということも知った。そして、協力する体を装って足を引っ張ってくる人もいるし、私利私欲のために誰かや何かを搾取しようとしてくる人がいることまでも、知ってしまった。

教科書で学んでいた生存戦略なんか比較にならないほど、人間は、そして人間が構築した社会システムは複雑だった。これは私にとってとてつもない衝撃であった。この「社会システム」を理解することは、自分たちが社会の中で生き抜く上できっと大切なことなのに、私たちはその事実について一切知らないまま、綺麗事ばかりで構築された「道徳の教科書」みたいな、あの時の義務教育の中身を世界の全てだと信じて、大人になってしまったのだ。

そんな未熟な状態にも関わらず、私たちは否応なしに社会に放り出されて、前述したような「複雑なコミュニケーション」を、不特定多数の人間と死ぬ間際までやっていくことが要求されている。平均寿命まで生きたとして、あと50年近くも続けなきゃいけないなんて、ほんとうに目眩がする。せめて心の安息地帯でもあれば、その苦しみは少しくらいは軽減されるのかもしれないけれど。逆に、よく何百万年も人類は存続できているもんだなと、感心してしまう。

 

前置きが長くなってしまったが、この「これからの生存戦略を考える」では、世知辛え〜!と思う機会が多い気がするこの世の中で、日々感じているストレスや、もんにょりとした不安な気持ちを抱えながらも、どうやって折り合いを付けて生きていくのがよいかということを、私や、私に部分的に共感している人(あるいは全く共感できない人も巻き込ん)で考えていくという試みをしたい。まあ、レスポンスがなければ、超なげ〜独り言になってしまう可能性もあるんだけどね。まあそれでもいいや。

 

その「衝撃」がもたらした不安

人間不信っぽいやつ

過去の自分を良い感じに装うならば「純粋」だったが故に、言葉を選ばずに言えば「思慮浅かった」が故に、私はいい歳して「人間不信っぽいもの」に陥っている。元々、自分を含む人間に対して過度に期待して幻想を抱いていたのかも知れないけど。

「いろいろあって人間不信」と言うと、大概「次会う人が今まで会ってきた人と同じとは限らないじゃん」と励まして(?)もらえるのだが、正直なところ、そんなことは言われなくても理解しているつもりだ。何なら「人に対する信用」なんて、当事者の過去の言動が担保するものじゃなくて、当事者のこれからの言動によって積み上げていくものなのでは?と思うのだが、そこまで頭でわかっていてもなお、人間の「そういう一面」を一度でも目撃してしまうと、いろいろな面で保守的になってしまう。こびりついた嫌な記憶は「わざわすれマシン」みたいなもので真っ新に消せてしまえたら楽なのに。でも、この「記憶にこびりついて離れない」ことも、リスク回避するために生物が維持し続けた学習能力ということなのだろう。一方で、この「人間不信っぽい気持ち」は、私にとっては精神衛生上よろしくない。この不穏な気持ちの全てがなくなることはなくても、できれば減らしたいなあ、という願望がある。

では、どうやったら払拭できるのか?もし、過去の私の「人間に期待しすぎていた」ことが原因ならば、今後は人間に対して一切の期待を寄せなければ良いのでは?ということも仮説として考えたのだが、そんな単純な話でもない気がしている。

たとえば、応援している好きなアイドルがいたとして、彼らに対して私たちは「次のライブも楽しみだな〜!会いたいな〜!」と、迂闊に期待する。でも、もしそのアイドルが、ライブをできなかったとしても、たとえ解散してしまったとしても、悲しいこそすれ、人間不信感が加速するかといったら、違う気がするのだ。絶大な期待を寄せ、癒しという役割を背負わせて、そんな彼らに少なくない時間とお金を捧げているのにも関わらず、その期待が現実のものにならない上に、明らかな不利(ライブにいけない、日常の癒やしがなくなるなど)がもたらされることが確定してもなお、不信にはつながらない。これは一体なぜなのか?

それから「期待」は原動力になる側面もある。確かに「過度な期待」はプレッシャーになってしまうこともあるけれど、私自身は、頑張って自分の人生を生きている人を応援していきたい!という気持ちを勝手に抱いているし、私が生きている様も「見てくれよな!」と思う気持ちがある。けど、私の応援が誰かの何らかの重荷になるのならばそれは本意ではないし、これ以上人間同士のコミュニケーションの難解さにうちひしがれたくない。一体どうしたらいいというのだろうか。

 

自己消滅に対する危機感

人間不信とは別の問題として、私は自分の未来に対して「恐怖」に似た感情を抱いている。それが「自己消滅に対する危機感」である。言わんとすることとしては「自分がこの世からいなくなってしまうこと」「この世界に何も残せないこと」「人の記憶から消えていってしまうこと」に対して、かなり強めな、負の感情を抱いている、ということだ。

小さい頃から私たちは「○○ちゃんは将来何になりたいの?」と、耳にタコができるくらい聞かれて育ってきた*2。これは翻ると、私たちはみな、周囲から「何者かになること」あるいは「(社会における)何らかの役割を担うこと」を求められきたように感じる。

「誰々の夫」「誰々の妻」「誰々のおとうさん、おかあさん」、「○○のプロ、○○で有名な、○○では右に出るものがいない、誰それさん」。

そのせいなのか、現時点で「ナニモノでもない自分」は、社会的に存在が許されていないように感じてしまうのだ*3。だからこそ、ナニモノかになりたいのになれないかもしれない「自分」と「その可能性」に対して、とても落ち込んでしまう。ネガティブに言えば「ア〜、私はこのまま何も成せずに死んでいくのか〜」という感じである。

一方で、日本社会で生きる多くの人々は「勤労」もしてるし「納税」だってしている。個人的な話をすれば、私は仕事を通して直接的に「教育」にだって貢献している。国民の義務は十分に果たしているはずなのだ。さらに言えば、研究者という仕事だって、研究成果を記録に残すことで科学史に名を刻むことだって理論上はできるはずだから、「自分が消えていってしまう!」みたいな危機感を抱く必要性は、少なくてすむはずなのだ。

ではなぜ、私は、私たちは、現在進行形で、この不安な感情に支配されてしまうのだろう。一体どんな要素が、私たちを不安にさせているんだろうか。そもそも「ナニモノかであること」って、そんなに大事なのだろうか。じゃあ一体「ナニ」になれたら、私たちは安心できるのだろうか。運良く「ナニモノ」かになれたとして、なったらなったらで、新たにその「ナニモノ」ならではの、悩みや不安に襲われてしまうんじゃないのか?そもそも「ナニモノ」でもない「自分」の存在を認めあう社会に、どうしてならないんだろう?

 

もう少しだけ気楽に生きてえんだこっちは

挙げればきりがないし(本当は仕事の生存戦略も話したいし)、悩みや疑問の解像度は、上げようと思えばいくらでもできてしまう*4。「ザワの考えすぎでは?もっと気楽にいこうよ!」と言われても、ごちゃごちゃと考えたり気になったりしちゃう性格は、変えようとおもってもなかなか変えられるものではない。

こんな感じで、あらゆる不安を抱えながら日々生きてはいるものの、そもそも私は、これらの不安な感情を一掃させることなんて、端から期待していない。けど私は、もう少しだけでいいから、肩の力を抜いて生きていきたい気がしている。不安と共存していかなくてはいけないことは覚悟の上で、それでも、願わくば「このままぼんやりと生き続けても、まあ人生どうにかはなるんじゃないの?」くらいのメンタリティで生きていきたいのだ。

 

でもどうすればそんな生き方が実現できるのか、自分の頭で考えるだけでは、時間も、能力も、経験値も圧倒的に足りない。でも、このまま人間不信をこじらせて、不安な気持ちに押しつぶされながら死んでいくのは嫌すぎる。

これは労働世代からの、公開お悩み相談であり、魂の叫びであり、ある種の悲鳴です。

たすけてください。

 

ひょっとしたら、すごい人に「お前は甘い!」と言われてしまうのかも知れないけど、別にいいじゃんね、甘くったって。私は辛くて一部の人しか幸福になれない世界より、甘くてもみんながそれなりに幸せになれる世界に住みたい。

 

というわけで、とりとめもないことをダラダラと書いてしまいましたが・・・どうか部分的でも全く構わないので、気になる箇所があったらご意見ください。よろしくお願いします。

*1:この説は、生物は、どのように子孫を残すかということについて「2つの選択に迫られている」というものである。ひとつは多産多死(たくさん産むことで全体として生き残る確率を上げるr戦略)型、もうひとつは少産少死(産む数は少ないが個体数を確実に確保するK戦略)型である。

*2:今思えば「そういうあなたは将来何になりたいの?」って大人に聞き返せばよかったなあ。みんな何て答えたんだろう?

*3:一応、今も昔も私は「ザワさんちの娘」ではあるけど、30歳にもなってそれを自称するのはちょっと違う気がしちゃうんだよね、私はね!

*4:多分私はネガティブな方向にとても想像力が豊かなので、リスクマネジメントに向いていると思う。仕事クビになったら誰か雇って下さい。