箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

ハラスメント野郎の傾向と学生を助けるための対策

この記事では、大学内で起こりうるハラスメントの例を一部記載しています。辛い気持ち、辛い記憶がフラッシュバックしてしまう可能性のある人は、読むことをお控えになるor下の目次から、読みたい項目までジャンプすることを推奨します。

 

ハラスメントとは?

セクシャルハラスメントパワーハラスメントモラルハラスメント。いろいろな種類のハラスメントが、現代日本には存在している。

ハラスメントの意味を改めて調べて見ると

ハラスメント(harassment):人を困らせること。嫌がらせ。

で、単刀直入に言えば「迷惑行為」である。

「ハラスメント」という言葉そのものは近年急速に広まったものであるが、人間が人間に対して、困らせたり、嫌がらせをしたりという迷惑行為の歴史は、ここ数年どころでおさまるものではないだろう。

それでも、ここまで社会問題として取り沙汰されるようになったのは、その迷惑行為の悪質性が、社会的に認知されるようになったからであると思われる。この社会の動向・潮流に関しては「ハラスメント」の存在を白日のもとに晒し、世間に認知・周知させることによって、意図せず他者を傷付けてしまう頻度を減らすこと、そしてその被害者を減らすことに著しく貢献したといえる。ハラスメントという言葉を広めるために、これまでに自身の被害を公表してくださった各位、啓蒙活動に尽力してくださった各位には、改めて敬意を表する次第である。

 

この記事を書くに至ったきっかけ

それは、私が所属する大学部局内で「ハラスメント予防推進委員」という役職を仰せつかった、というところにある。

大学内における「ハラスメント」は、指導教員から指導学生に対する「セクシャルハラスメント」と「アカデミックハラスメント」との2つを対象としていることが多い。しかし時には、上位職の人間から下位職の人間に対するセクハラ、および「パワーハラスメント」も存在するだろう。私自身は、学生の間、そして現職場においても、精神的苦痛を伴うような甚大なハラスメントを受けたことはそんなになかった*1。そのせいか「ハラスメント」については、あくまで「情報」として知っているだけで、その実態がどのようなものか十分に理解できていない、どこか現実味がない、という状態が続いていた。

その程度の認識の人間が「予防推進委員」など務まるはずがないだろうなと考えた私は「大学のハラスメント予防・対策、および実態はどうなっているのか」ということを改めて学ぶために、学内のハラスメント相談室に赴いたのであった。そして、相談室で教えていただいたことや、それを踏まえて考えた自分の思いを、ここに書き留めておくことにはきっと意味があるはずだと考えたのがこの記事を書くに至った理由である。

なお、本記事における「著者の意見」は、所属団体、および、ハラスメント予防推進委員を代表するものでもなければ、総意でもないことをあらかじめ申し添えておく。

 

今後の対応を前提とした「ハラスメントの分類」

今まで「ハラスメント」は、属性によって分類されていたように思う。しかし、今後どのように対処していくべきか?を語る上では、それとは異なる分類・・・例えば

1.啓蒙活動により改善が見込めるもの
2.啓蒙活動による改善が見込めない可能性が高いもの

の、2つに分類するのが適切であると、私は考える。なおこの記事では、ハラスメントの中でも「アカデミックハラスメント(通称:アカハラ)」を対象として議論していきたい。

1.啓蒙活動によって改善が期待されるもの

啓蒙活動といえば、例えば「このような言動はハラスメントに該当します」「これを学生に対しておこなうことは社会一般的に適切ではないです」ということを、実例に基づいて一般化し、周知していくことである。

では、啓蒙活動は一体どのようなケースの場合に有効なのだろうか。

 

1−1.指導教員のコミュニケーション方法が特殊なケース

例えば、教員の言動に問題があるように見えても、その振る舞いが「特定の人物」に向けられているのではなく、その教員の周囲にいる「あまねく全ての人物」に対して共通しているのであれば、それは「その人なりのコミュニケーション方法」である、と考えられる。その振る舞いの是非に関する議論はまた別におこなわれるべきであるが、おそらくこのような人物による「特殊なコミュニケーションスタイル」は、当該教員の生まれ育った環境や、個人の性質に由来するものと思われる。

このような「特殊なコミュニケーション」をおこなっている教員に対しては、ハラスメントの具体的な例を啓蒙活動等によって示すことにより、気付きを与え、改善してもらえる可能性がある。一方で「指摘されたところで、直す方法がわからない・・・」と、教員自身が困っているという場合も、十分にありえる。

これに対して、学生や周りが取れる行動について考えたい。

おそらく、このようなタイプの教員がコミュニティ内にいた場合、学界あるいは部局内で「特殊人物」として、それなりに認知されている可能性が高いと思われる。多くのハラスメントが「あらかじめ予防することが難しい」のに対して、事前に情報収集ができること、それを踏まえて、進学先検討の際には当該教員から指導を受けるかどうかを(前もって覚悟して)選択できるという点では、救いがあるだろう。また、入学後に気付いてしまった場合も、適切な距離感を掴むことさえできれば、関係性の悪化を食い止めることは可能であると思われる。また、周囲の教員やスタッフ、先輩等に相談することも(後述するような悪質な例と比べれば)幾分容易である。

本来ならば、人間関係等の悩みが研究や学びの妨げになること自体を避けられたら良いのだがが・・・そもそも大学教員や研究者に「曲者」が多いというのもまた認知されるべき事実でもある。だからといって第三者を不用意に傷付ていい理由にはならないが。

 

1−2.教員自身の成功体験を意図せず学生に押しつけているケース

例えば当該教員が、これまでの人生で「なりふり構わず」「いろいろなものを犠牲に」「心血を注いで」研究活動をしてきたことによって、生き残ることができた・・・といった経緯を持ち、なおかつ「当時のその努力こそが、アカデミアで生き残る秘訣である」といったような、確信めいた成功体験(生存バイアス)が、当該教員の中で色濃く残っている場合、その教員は指導学生に対して、若き日の自分と同等の努力、必死さ、仕事量を要求してくる可能性が高い。「自分にも他人にも厳しいタイプ」の人間が、このようになりやすいと思われる。そして、特に悪気もなく「どうしてできないの」「なぜやらないの」と言ってのけるのである。

しかしながら、時代は移り変わり、社会構造も変化している中で、学生と自分との間の「価値観の差」、あるいは「置かれている環境の差」を正しく認識できていない教員も残念ながらそれなりに多い。なぜならば、大学内は一般社会と比較すると、とんでもなく閉鎖的であり「価値観を刷新する機会」がそもそもかなり少ないからだ。

加えて「学位は取得したいが、必ずしも研究業界に残りたいわけでは無い」という学生の存在を、正しく認識できない教員も少なからずいる。ただしこのあたりの議論は「修士号または博士号に何が求められているのか?何をもって学位を与えるのか?」という議論にもつながるのでここではこれ以上言及することは控えたい。

このような状況に対して、学生本人、または周りに何ができるのか?というと、正直に言うとあまりない。しかしながら「学生が『学び』に集中できるような研究環境を作りたい」と願っている教員なのであれば、啓蒙活動を通して、教員は再考する機会を得られるため、今後の教育指導で試行錯誤を繰り返し、ゆるやかに改善されていく可能性も残されている。しかしそれは「そのような発想がそもそも希薄な教員に対しては、啓蒙活動は特段効果的ではない」ことも意味している。

 

2.啓蒙活動によって改善が期待されないもの

ここからは、少々胸が苦しくなる話になる。ハラスメントに関して、ネガティブな思い出をお持ちの方は、決して無理することのないよう、よろしくお願いします。

 

***

さて、研究不正の記事でも似たようなことを申し上げたが、そもそも論として、もし「啓蒙活動を通してハラスメントが予防できる」のであれば「ハラスメント」は世の中からほとんどなくなっているだろうし、「ハラスメント」という言葉さえも、とうの昔に風化し、死語と化し、忘れ去られているはずなのだ。そうであるにもかかわらず、ハラスメントによって、今もなお多くの人が苦しんでいるという事実から推測されることは、ここに分類されるようなハラスメント、すなわち「嫌がらせ行為」は、起こるべくして起こっている、と考えるのが妥当である。

ここ以降、実際に聞き及んだ例について、守秘義務違反にならない程度に一般化・分類し、それに関する個人的な見解を述べていきたいと思っている。なお、繰り返しになるが、本文で述べられていることは私の個人的な意見であり、所属部局およびハラスメント予防推進委員を代表する意見でもなければ、総意でもないということを改めて申し添える。

 

2−1.言動で「攻撃」するケース

例えば、教員から、学生や周囲の人間に対して、

  • 「失敗」した時に「怒る(そして時に、その怒り状態が必要以上に継続する)」
  • 「不機嫌」を周囲の人間にまき散らす

という場合がある。上記2つに共通することは、当該人物が持つ「他罰的な攻撃性」にあると、私は考える。

そもそも論として、ミスは誰でも侵す。それが偶発的であろうと必然であろうと、どんなに準備していても、いつでも誰でも起こす可能性がある。それは至極当然であるにも関わらず、それに対する指導をする上で、わざわざ「怒り」の感情を露呈させる必要はない。また一般的には、学生は初心者であり、教員はベテランである。ある意味では「学生が失敗してしまう」ことは想定の範囲内であるべきで、その失敗に対して教員が怒ったところで、何も解決されないのは、火を見るより明らかである。そうであるにも関わらず、ハラスメントをおこなう教員は何故か怒りの感情を発露する。それによって学生は萎縮し、失敗を恐れ、挑戦を恐れ、どんどん身動きが取れなくなってしまうだろう。

彼らは「教員の怒り」がいかに研究室にとって非生産的であるかを、理解できていない。むしろ教員であれば、なぜミスが起きてしまったか、なぜ上手くいかないのかという理由を、一緒に考え、次に同じ事を繰り返さないように対策を練る方が、よほど建設的であることは自明である。加えて「指導教員が不機嫌な状態でいる状態」に関してもまた、周囲(学生およびスタッフ)にそれなりの負のエネルギー(プレッシャー)を与えていることを理解されたい。こちらは学生側に「責められる謂われが無い」分、単刀直入に言えば、甚だ迷惑である。

アドラー心理学によれば、彼らは怒りたいから怒っており、不機嫌であることによって何かを得たいから不機嫌になっているのだと考えられる。自分の内に眠る攻撃性とそれに追随する欲望に対して誠実に向き合い、心当たりのある者には直ちに悔い改められたい。

ちなみに、数年に及んで自分のメンタルと向き合ってきた私から言わせると、正直、これらの行動をとってしまう人物、すなわち「自分の感情をコントロールできない責任を、他人に背負わせる人間」は、精神が未熟であるとしか言いようがない。その「やり場のない感情」を、他人にぶつけて解消しようとする行為は、一般的に「八つ当たり」というのだ。自分が一体何をしているのか、一度自分の胸に手を当てて考えてみて欲しい。

 

2−2.行動を「制限」するケース

以下に共通するのは「征服欲」であると思われる。自分よりも社会的地位・心理的地位が低い人間に対して「嫌がらせ」をしているのである。

  • 研究活動や設備等の利用を不当に制限する(研究発表させない、実験させない)
  • 常識的に不可能な仕事(課題)の達成を日常的に要求する、実験等のスケジュールを分刻みで決め、厳守することを強要する
  • 一方的に個人を貶める発言をする・発言の機会を奪う
  • 単位や学位を引き合いに出す

教員が学生の「学び」を教員が邪魔していいはずがない

そもそも「研究活動や設備の利用を制限すること」は、学ぶ意欲を持って大学に来て、安くない学費まで払って(時には奨学金まで借りてい)る学生の「学ぶ権利」を侵害していることに他ならない。これに加担するような行動は、教員としてあるまじきものである。

もしも実験を中止せざるを得ない、あるいは研究成果の発表を推奨できない「正当な理由」があるとするならば、学生と指導教員との間で、お互いが納得いくまで対話をすることが求められるだろう。それがおこなわれていないのなら、それもまたハラスメントの一部である。

また「学生の実験スケジュールを管理・把握しようとする」「それを守れないことを責める」という例もしばしば耳にする。しかしながら、そもそも学生は教員に雇用されているわけではなく、言ってしまえば、そもそも計画通りに遂行する義務や責任はない*2。スケジュール通りに進まなかった場合、責任を負う(卒業が遅れるなど)のは学生自身であるためである。また「学生が立てたスケジュールは(経験値の少なさ故に)読みが甘い」可能性が高く「途中で計画変更を余儀なくされる」のはよくある話であり、それによって自責の念に駆られこそすれ、教員に責め立てられる謂われはない。

もしも学生自身が「実験計画の立て方に苦戦している」のであれば、教員としてやるべきことは、今までの自分の経験に基づいて「十分に達成可能な計画の立て方」や、そして「リカバリーの仕方」を、指導あるいは一緒に考えることであり、わざわざ傷口に塩を塗り込むことではない。

 

個人を貶める行為は「侮辱」に値する

また、指導教員が「特定の学生」に対して、一方的にダメ出しをし続けたり、議論の際に発言をさせなかったり、話を遮ったり、公衆の面前で「悪評」を知らしめたりすることは、侮辱行為であることを認識されたい。たとえ学生が「要指導」な内容を発表してしまったとしても、いつ、どこで、どのように指摘するかというのは、注意深く考えられるべき事柄である。

 

単位や学位を人質に「脅迫」をするな

前提として、日本において学位取得するためには、指導教員と指導学生の間における「徒弟制」が運用されており、最終的には指導教員の許諾を得る必要がある。すなわち、学位を取りたい学生と、指導教員との間には、そもそも圧倒的な「力」の差が存在する。

そのような中で「●●をするなら/しないなら(あなたの単位や学位の)責任は取れない」などといった言葉を指導教員が発すること自体が、大きなストレスを与えてしまうことは容易に想像できる。それが事実に基づく指摘(例えば「単位数がいくつじゃないと、卒業できないよ」とか「論文数が卒業要件に達していないから、3月卒業は難しいよ」とか)は、然るべきタイミングで指導教員と学生の間で議論されるべきである。

しかしながら、ハラスメントをするような教員は、この言葉を日常的にチラつかせ、相手をコントロールするための道具として用いることが多い。最終目的が卒業や学位取得である学生に対して「●●をするなら/しないなら(あなたの単位や学位の)責任は取れない」という発言そのものが「脅迫」に値するだろう。

 

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ここまで話をまとめるのに数ヶ月かかってしまった。記事を見直す・書き直す度に、理不尽への嫌悪感が増大するからである。

 

自分事として考える「ハラスメントに関するリスクマネジメント」

ハラスメントの構造的な問題として、その「非対称性」にあるだろう。この「埋めることができない力関係の差」が、大小様々な問題を引き起こしているといっても過言ではない。

そして「ハラスメント(=嫌がらせ)」をする人には2種類いるように思う。ひとつは「ハラスメントをしている自覚がない者」、そしてもうひとつは「ハラスメントをしている自覚があり、周囲にバレないように陰でやる者」である。

ハラスメント予防推進委員的な目線で意見するならば、当然ながら、後者の方が、より悪質で、陰湿で、はちゃめちゃに厄介だ。なぜなら、加害者は「社会倫理的にはやってはいけないことである」とよく理解していながら、バレないように、明るみにならないように行動しているからだ。そのような人々に対しては、どんなに積極的に啓蒙活動をおこなったとしても、結局は、のれんに腕押しである。更に言えば、実際に研究室で何が起きているのか?という実態は、被害者(あるいは関係者)が、第三者に打ち明けて初めて発覚する・・・翻ると、被害を受けている誰かが、勇気を振り絞って告発しない限り「そもそもハラスメントなんてこの世に存在していない」ということになるからだ。

 

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正直、他人事だと思っていた。多くの人間は、自分の経験に基づいたことしか正しく認識できないからだ。でも、ハラスメント予防推進委員として活動してわかったことは「ハラスメントは日常的に起きていること」、「明るみになっているのは、本当の本当に『氷山の一角』でしかないこと」、そして「ハラスメントの相談件数に対して、実際に問題対策のために大学や第三者機関への調査の要請に移るのは、相談される件数のうち数%程度でしかないこと」だった。アカハラは、セクハラと比べて、被害者と加害者と実質的な被害が明確になりにくく、学生は報復を恐れていることもあり、そのほとんどが有耶無耶のまま、本質的な問題解決は何一つなされぬまま、卒業まで静かに耐え忍びながら過ごしているのだという。

そんなことが許されて良いのだろうか。いいはずがない。

しかし、いくら私に「予防推進委員」という肩書きがあったとしても、自分のラボ(自分の学生)以外に対して、当該教員と学生の間に踏み入ることは困難である。そのような行動は、私のエゴでしかなく、根本的な解決には至れるものではない。踏み入ったことに対して生じうるあらゆる事柄に対して、責任を取ることもできない。

だからせめて「どのような環境だったら、ハラスメントが起こりにくい環境を維持できるのか(たとえ起こってしまったとしても、改善への道を示したり、そこから学生を助けたりできるのか)」を考えることが、私にできる最大限のことなのだろうと思う。

 

ハラスメントをしない・させないためにできる環境作りと心構え

ハラスメントが起きがち(そして発覚しづらい)ラボの特徴として、研究室運営および研究活動が閉鎖的であることが挙げられる。閉鎖的であるがゆえに、研究室内で起きていることについて、周りの教員からの目が届きにくいうえ、たとえハラスメントが発覚しても、周囲の教員が学生に対してフォローしづらい状態になってしまう。それを防ぐためには、

  • 学生を囲い込まない・囲い込ませない
  • 研究室運営を複数教員でおこなう、または他ラボの学生とも信頼関係を築くこと

が重要であると私は考える。また、いち教員としては

  • それぞれの学生と、適切な距離感のコミュニケーションを心がけること
  • 教員と学生は「主従関係」でなく「対等」であることを理解し、尊重すること

を、改めて認識したい。対人関係のトラブルの多くは「コミュニケーションの希薄さ」によって産まれる。信頼関係が築けていないからこそ、すれ違いが起き、距離感を間違える。それぞれに適切な距離感があり、それをその都度図っていくのは容易ではないが、良好で対等な関係というのは、双方の努力によって生まれるものであることを忘れてはいけない。そして

  • 自身に内在する攻撃性を認め、それを発露する対象は決して学生ではない、ということを自覚すること

を、誰かを指導する身にある人間には、一度考えてみて欲しい。たとえ個人の行動が、誰かや自分の癪に障ったとしても、そもそも「人が人に攻撃・加害していい理由」にはなり得ないし、その暴力性が肯定されることもない。これが理解できない人は、そもそも教育者にならない方が、自分のためでも、他人のためでもあるだろう。

しかしながら、そのような衝動的な行動を一度も経験していない人間の方が少ないだろう。そのような中で、不用意に人を傷付けずに良好な関係を築くためには、衝動的な一面が自分にある(存在しうること)を認めたり、その衝動を抑える術をあらかじめ学んで知っておいたりする必要がある。

私の場合、どうにも感情の起伏が激しかったり、イライラしたりしている時には、学生および同僚とは一定の距離を置くことにしている。議論の予定があれば、正直に話して、日を改めさせていただいている。相手もイライラしている人間と議論なんかしたくないのであろう、理由を話せば大抵理解してくださる。

 

ハラスメントを見かけたら・相談されたら

これはハラスメント予防推進委員の方と話した時に、お願いされたことでもある。

1.ハラスメント相談室を活用する

既に精神的に追い詰められてしまっている学生は、それがハラスメントであるかどうか、自分に過失があるのかどうかの判断もできない状態になっていることが多いそうだ。

弊学のハラスメント相談室の方が言うところによれば、もっと気軽に、事態が深刻になる前に「これってハラスメントになるんですか?」くらいの温度感で良いから、どうか相談して欲しい、とのことだった。もしも周囲に相談したことがバレるのが怖い場合は、名前を名乗らなくても良いし、相談したからといって必ずしも「次のステップ(教員に対して何らかのアクションを起こす)」に移行する必要性もない(むしろそこは学生側が希望しないと相談室としてはアクションを起こせない)のだそうだ。相談しようかどうか悩んでいるという学生は、匿名で尋ねてみるのはいかがだろうか。

 

2.学生の状況に最も適した「専門機関」につなげる

これはハラスメント予防推進室でも、いち教員、いち大人としてもしっかりと認識しておきたい。もし学生が心に傷を負ってしまっている場合には適切な医療につなげること、身近なところでハラスメントを見かけたらそれを取扱う部門にまず相談することが求められる(そしてその際には、個人情報に十分留意しなければならない)。決して「自分なら解決できるかも」などという慢心で、素人判断で勝手なアドバイスをすることや、学生からの信用を失墜させるような行動をとってはならないことを、十分に理解しておく必要がある。

 

おわりに(個人的な感想)

本文中でも述べたが、多くのハラスメントが「コミュニケーションの希薄さ」に伴う「距離感バグ」によって生まれているように思われる。コミュニケーションがうまくいっていない状態・・・それは教員の特性によって引き起こされることも、時には学生の特性によって引き起こされることもある。場合によっては、教員−学生間の「言語の壁」が引き起こしてしまうこともある。それらによって生じてしまう様々な問題の「責任の所在」について考える時には、なかなか100か0で判断することは難しい。しかしながら、そこにどんな理由があろうとも、加害して良い理由にはなり得ないことを、教員側は改めて認識されたい。また、教員と学生の間には、超越することのできない、立場的、精神的な「非対称性」を、十分に理解して接する必要があることを忘れてはいけない。それについて考えたり対策したりすることが面倒だと感じてしまうのであれば、残念ながらその人は、教育者には向いていない(あるいは、教員になるには未だ精神が成熟していない)のだと、私は思う。

悩んでいる学生さんへ

私なんかでよければDMでも何でも相談してくださいと、言いたい気持ちは山々なのですが、先に述べた通り、私はハラスメントや心理学の専門家でもなければ、私が意見したことによって生まれうる様々な事柄に対して、責任を取ってあげられない立場にいます。力になれなくて本当にごめんなさい。でも、あなたの周りにも絶対、私と同じように、ハラスメントを許さない、あなたの味方でいてくれる人も、必ずいます。苦しい時には、どうか吐き出してください。どうかあなたに、心理的安全が確保できる場所が見つかり、状況が少しでも改善されていくことを、心から願っています。

 

*1:軽微なものなら相応にある

*2:雇用関係にある(対価をもらっている)ならば、ある程度は計画通りに実施する必要は程度生じるかもしれないが