箸はともかく棒にはひっかかりたい

とある大学教員によるいろいろなメモ書き

過去の質問をまとめておきます

 

ざわこです。最近のTwitterの仕様変更(またかよ…)により、外部アプリとの連携ができなくなりつつあるようです。私が主に利用している質問箱もその一部のようで、これ以上仕様変更に振り回されるのが面倒になったのでアカウント削除しようと思っております。

ですがその前に、学術関係に関する質問はアーカイブとして残しておきたいなと思ったため、ここにまとめておきます。

 

地球生命科学って何?

地球生命科学ってどういう範囲の研究をする学問ですか?

質問ありがとうございます。
所属学会による説明を引用すると「地球と生物の相互作用のプロセスとメカニズム、そして生命の起源から現在に至るまでの地球生命変遷史を明らかにする研究領域である。(中略)「地球生命科学」は、いかにして地球上の生物が生じ、多様化、複雑化したのか、地球以外で生命は繁栄していないのか?など、生命の起源から、その後の複雑化、多様化、絶滅などを含むあらゆる進化現象の解明をめざす。」(日本地球惑星科学連合HPより抜粋)となります。

私自身の関心は、特に

  1. 生物を取り巻く「環境そのもの」の今の姿を正しく理解すること
  2. あるべき姿を考えること、そして
  3. 環境変化に伴い生物がどのような生存戦略を取って生きているかを知る手がかりを見つけること

にあります。

 

研究に好奇心は必要ですか?

研究に好奇心は必要ですか?

質問ありがとうございます。
個人的な意見を述べるなら、研究を自分の中でどのように位置付けるかによって「必要かどうか」が変わると思います。実際には、誤解を恐れずに言えば、好奇心がなくても研究活動はできるし、好奇心があっても研究活動という作業プロセスに向いているとは限らないと考えます。

 

科学と信仰の両立

科学と信仰の両立(あるいは対立)について徒然とお話しおうかがいしたいです!

質問ありがとうございます。この辺り気になりますよね。
科学と非科学(信仰あるいは宗教などが含まれる)の大きな違いは「反証可能性」の有無であると言われています。反証可能性とは、科学の理論は全て、実験や観察の結果によって、批判あるいは否定され得る、ということです。翻ると「100%正しい科学」、というものは存在せず、一方で「誰にも否定されることがない完璧なもの」は科学ではない、ととらえることができます。
このような性質の違いから、不確かさを内包する科学と、正しさを求められる非科学(例えば信仰)は、個人的な意見を言えば、相性が悪いものと思います。しかしながら、世界には「信心深い科学者」もいて、科学と信仰を切り分けて柔軟に(フラットに)物事を考えられる器用な方もいます。一方で、科学に信仰の要素を持ち込む人も少なからずいて、微妙なラインの話をするときには、お互いの立場や主張を尊重するために、腹の探り合いのようなことをすることもあります。

 

人が生きる意味

いつか人類も地球も宇宙でさえも終わってしまうのに、人が生きる意味は何だと思いますか? 科学者の視点からでも、ざわチャン様の個人的 な考えでも良いのでご回答いただけたら嬉しいです。

興味深い質問をありがとうございます。
人を「人類」ととらえるか「個人」ととらえるかにもよりますが、結論から述べるなら「意味なんてない」と思います。

生物進化から見れば「環境に適応できたものが生き残れた(そしてたまたま人類も適応できた)」というだけです。言い換えると、そのうち地上を支配するのは人類ではなくなる可能性もありますから、そうなると「人類が生きる意味」なんて大それた目的など、特に存在しないと思います。むしろ、人類は地球に対して不可逆的な環境変化を起こしまくっているので、ナチュラリストとしては人類のあり方に疑問を持つこともあります。

そして私たち「個人」で考えると、親世代の生殖によって勝手にこの世界に産み落とされただけです(誤解を恐れずに言えば、私たちは「産んでくれ」なんて頼んでいませんよね)。私たちが生きていられるのは、理由があるからではなく、勝手に心臓が動くから、勝手に代謝するから、なんとなく生きられているだけです。
自分の「生」にどのように意味を見出すかというのは、多くの哲学者が挑戦している命題のようにも思えますので、それだけ古今東西、老若男女に共通する問いなのだと思います。

それでも人間社会では、さも「生きる意味」が明確に存在するかのように扱われます。しかしそれは裏を返せば、理由や意味を見出せない人が多いからこそ、それを探して安心したいのだと、そのようにも感じられます。

私自身は、家庭の事情で「生まれてこなかった可能性」があるので、産み落としてくれてありがとうと両親に対して思っています。いろんな経験もさせてもらっているし、これらを次の世代に受け継ぎたいとも思います。
しかしながら、別に私個人が特別に持っている「生きる意味」なんていうのはありません。それに、たとえ私が死んでも(家族友人は悲しむかも知れませんが)人間社会としては何ら問題なく機能しますし。
ただ、サイエンスの進歩が遅れるかも知れないという意味では、私が生きる(そして仕事をする)目的は、そこに仮決定できるのかもしれません。

 

「女性限定公募」について

女性公募論争が盛り上がっていますが 学位を取得したあと今の職を得たことに対して 女性であることによって不利だったこともしくは有利だったと思うことはありますか?自分と同じレベルの職の人と比べて自分の実力や業績は相応だと思いますか?率直な意見を聞きたいです

質問ありがとうございます。
自分が応募した公募は女性限定ではありませんでしたので、選考の段階における有利不利は存在しなかったと考えています。ただ単純に「公募先が応募者に求めている条件」に対して(他の応募者と比較した時に)「相対的に適していたから」という理由がそこにあるだけだと考えています。ただ、その「応募者に求めている条件」というものが、その公募によって、あるいは人事委員会によって、部局によって、大学によって、思想や方針が様々であるはずなので、もし当時の私が違う公募に応募していたら、今こうやってアカデミアに身を置けていたかどうか、全く自信はありません。運が良かったのだと思います。
一方で、職に就いた後に、不利…というよりも不公平だなと思ったことはあります。それは「私が女性だから」という理由で、色々な役員や仕事が高頻度で回ってくるということです。とくにこの「ジェンダーフリー」を目指す社会への過渡期においては、まさに今回の質問のように「女性教員として」「女性研究者として」の、意見を述べる場所に赴いたり、ヒアリングを受けたりすることがそれなりにあります。私は今の職場で拾っていただいた恩もありますし、それがこの時代に生まれた自分の役割なのだと腹をくくっているため、振られた仕事は責任を持って果たす努力をしますが、正直に申し上げますと、本来ならば研究や教育に使えたはずのリソースを、私が「女性であるから」という理由のみで奪われてしまうのは、とんでもなく不公平であると思っています。かといって、そのような仕事の存在そのものを無くしてしまうことは、ジェンダーフリーの実現が遅くなってしまうことになるため、それは私の意図するところではありません。よって、女性限定公募に関して、いろんな論争をすっ飛ばして、はちゃめちゃに利己的な意見を言うならば、自分の負担を減らすために、女性の絶対数は直ちに増えて欲しいと思います。
後半の「自分と同じレベルの職…」に対しては、私と他者を「どのもの差しで比較するかに」よって、相応と言えるかどうか回答が変わります。例えば「教育経験」という視点でみれば、私はまだまだ教員として経験や実力は劣っているでしょう。
私に無い能力や技術を持った教員や研究者は、もちろん、日本中、世界中に大勢いらっしゃいます。しかし、私にしかないものがあり、それを周囲がある程度は認めてくださっているからこそ、今ここで働かせてもらえている…ということなのだと私は信じています。今はまだ断言できるほどの自信はないですが、将来的には断言できるようになりたいですね。